庭の花
2023 5 8 (art23-0543)
昨日丸一日降り続いた雨が、今朝上がりました。朝食前に、畑を見回りました。野菜苗を覆っているアンドンの内壁に、ナメクジが数匹取りついていました。庭に咲いている花も、びっしょり濡れています。天気予報では、曇り後晴れとありますから、そのうち、乾いてくるでしょう。花の多くは、鉢植えの植物で、家内が世話をしています。(写真は、雨が降る前に撮りました)
何という名前の花なのか、ほとんど知りません。名前を知っていると、その花について図鑑やネットで調べるときや、誰かに○○の花が云々と言えますから、便利です。しかし、そこに咲いている花を、”ああ、きれいだなー” と眺めているだけですから、凡夫には、名前はいりません。
ところで、この ”きれいだなー” という ”感じ” はどこからきているのでしょうか。説明しようにも、できそうにありません。形がどうの、色がどうの、質感がどうの、など、アレコレ取り上げて説明することになるのでしょうが、説明尽くすことはできそうにありません。つまるところ、きれいだからきれいなのだ、と言わざるを得ないようです。
"きれいだなー” という感動が先行し、言葉が後行します。言葉は、先行する感動を表現・説明しようとしているだけのものです。うまく表現できればよいのですが、いつもうまく表現できるとはかぎりません。表現力が問われます。言葉に疎い凡夫のような人は、生起した感動を表現することができません。ぴったりとはまる言葉がみつからず、ありふれた言葉で済まそうとします。いつも、何らかの違和が残り、もんもんとすることになります。つまるところ、他者に伝えることがままならず、いらだちます。
そもそも、先行する感動とは何ものなのでしょうか。言葉以前のものであり、表現以前のものです。”きれいだなー” とは、後で、それを、言葉で表現したものでしかないのです。それが何ものかわかりませんが、何故、我々はそれに感動するのでしょうか。そして、感動するそれ、と感動しないそれ、があるのでしょうか。不可思議な世界です。
いずれにしても、それはそこにあるのであって、花の名前を知ること/知っていることとは無関係であることは自明です。