今日も、"ようこそ"  
  
   
(田山花袋)  
東郷湖の一夜

    松崎駅で私は下りた。
    私の前には、美しい静かな池があつた。しかしそれは大きな湖水と言うことは出来なかつた。周
 囲を続つた山も、さう大して特色あるものではなかつた。それでも私の心は何となくその静かな落
 付いたシインに惹かれた。
     それは東郷池であつた。その池の中からは温泉が湧き出した。
     私は二三度出雲に行ったが、そこに泊まったのは、前にも後にも一度きりであった。従って
 その印象は、果たして正確であるか、またそのあたりが何んな風に変遷したか、それを私は全
 く知らなかった。しかし、たつた一度ではあったけれども、その印象が私に取ってかなりにすぐれ
 たものであったことは争はれなかった。
     それは秋だった。湖をめぐったのんびりした山は既に紅葉の色を着けていた。私はそこに静かな
 一室を発見した。田舎に似合ず設備のすぐれている一室を発見した。そしてその一室は右も左も皆
 な湖水で取巻かれていた。
 「あっ、好いな。」
 かう私は思はず口に出して言った。
     やがて入って来た女中に、
 好いところだね。外で見て来たよりも、此慮に入って来てからの方の感じがぐっと、好いね。そ
 れに、静かだね。」
 「今は丁度、お客が御座いませんで・・・」
 いつでも、こうって言ふわけではないんだらうね?」
 「夏は随分が多う御座います。」
      その女中の足袋の裏も白く、着物も愛仙位は着ていて、何慮かいきなところがあるのも、静かな
 感じを私に奥へる動機とはなったであらうと思はれた。 私は女中の名などを訊いた。
 「あ、お文さん。好い名ですね。」
 などと私は言った。
       案内されて行った浴場が、また私の気に入った。お文さんは、先きに入って行ったが、浴槽の中
 に、布が晒してあるのを見て、裾をまくって、それを引上げるべく下りて行った。
 「布が染まるのかね?」
 「え。」
 「なァに、そんなに残らず出さなくっても好いよ。」
 かう言って、私は覚からちょろちょろと落ちて来る湯に浸った。何とも言はれなかった。秋の夕
 の静けさが、じつと腸に染み通るやうな気がした。
      私は好い心持になってあがって来て、女中を相手にビールなどを飲んだ。
 「この湖水では、川魚が取れるだらうね?」
 「え、取れます......。中でも、鰻が一番名物です。 京都や大阪の方にも出て行きますから。」
 「これがさうだね。」
 かう言って、私は膳の上に並べられた鰻の蒲焼を食った。 成ほど田舎には容易に得られないもの
 であった。鯉のあらひなども決して不味くはなかった。
      その夜は、月が明るかったので、お文さんに頼んで、おそくまで戸をあけて置いて貰った。湖上
 にかがやく銀波金波、夜更けて落て来る水鳥の壁、―さうしたシインが前日泊った美保の関の喧
 しいシインと雑じり合って、私は旅の興の尽きないのを思わせた。

伯耆の淀江に故郷をもったM君は言った。 「東郷池なんかつまらない・・・。それよりも伯耆では、三徳山ですよ。でなければ、大山ですね。」 それはそうに違いなかった。東郷池は、その土地の人に取っては、そう大したすぐれたところで はないに相違なかった。 三徳山って、何処です?」 「松崎のすぐ裏の方ですよ。倉吉の少し此方の方から入って行んですけども・・・さア、そ う大して変わったところでもないけど、古い寺がありましてね。渓流がちょっと好いですよ。」 「へえ。」 「それに、寺が大きいから・・・。しかし、伯耆では、何と言っても、大山ですよ。大山で伯耆は占 められていると言うても好いですよ。」 「それはそうですね。松崎からトンネルを出て、大山の裾野を懸かって行くと、何とも言われず気 象が雄大になっていきますからね。あそこから見た海も好いぢやありませんか。」 「隠岐が見えますからね。」 「そうですね、あそこから見えますね。」 「東郷池は、温泉としてよりも、むしろ倭文神社と、吉川元春の陣した馬の山との方がおもしろい ですよ。」かうM君は言って、「行って御覧でしたか?」 「いや・・・」 「それは惜しいですね。倭文神社の社域は東郷池を見るのに、一番好いところですがね。それに、馬 の山もわるくありませんよ。何しろ、吉川元春があそこで秀吉の大軍を堰きとめたところですから ね。東郷池って言ふと、誰も温泉ばかりをさして言っているけれども、温泉のあるところは、そん なに好くはないぢやありませんか・・・」 かうM君は言って、「矢張り、旅客の目と人の目とでは、見方が何うしてもちがひますね。」 「それは、何してもそうですね。」 「それで好いのかも知れませんよ。」 M君はこんなことを言って笑った。 松崎から、トンネルを経て、大山の裾野を御来屋あたりまで来る間に、私はかうした歌を手帳に かきつけた。 けふもまた そひゆく海の 色さびて さびしや海に 帆のかげもなき


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