今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

大学受験

2019 01 24 (art19-0100)
20日、入試センター試験が大きな混乱もなく終わったようです。53万の受験生が、緊張の二日間を過ごしたのでしょう。毎年、この時期には寒波が襲来し、寒い中、受験生が試験会場へ向かう姿がTVで放映されます。今年は、天気に恵まれたようで、そのような姿をみていません。

その時は一大事であったことが、あとから思い起こせば、笑って話せるような事柄になっていることがあります。凡夫にも、この種の出来事が幾つかあります。大学受験もその一つです。受験のため福岡へ行きましたが、それは道中に起こりました。

凡夫は米子高専の4年生の夏にちょっとしたことから退学することになりました(このいきさつは結構面白いのですが、割愛)。家に帰って、しばらく、ぶらぶらしていました。しかし、何もすることがないので、翌年の大学入学試験を受けることにして、とりあえず受験勉強を始めました。高専は5年間ですが、当時、3年以上在籍すれば、高校教育を修了した者とみなされ、大学入学資格が与えられました。

当時、1973年 (昭和48年)、大学受験は一回の学力試験で合否が決まりました。数年後の1979年 (昭和54年) に共通1次学力試験が導入され、2次試験との組み合わせで合否が判定されようになりました。そして、大学入試センター試験が、1990年 (平成2年) から採用され、現在に至っています。

大学は一期校と二期校に分かれ、一期校の試験は3月3・4日に実施され、5教科7科目の記述式筆記試験でした。試験の情報は、大学受験の専門雑誌の “蛍雪時代” から読み取りました。

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3月2日の夕方。米子駅21:40発の寝台急行列車“さんべ3号”(米子駅-博多駅間を山陰本線・美祢線経由で結ぶ)に乗る為、姉の運転する軽自動車で最寄りの倉吉駅へ向かいました。倉吉駅から米子行の普通列車に乗るつもりでした。しかし、倉吉駅に着いた時には、乗車予定の列車は既に発車していました。この乗り遅れがどうして起こったのか、凡夫も姉も覚えていません。おそらく列車の発車時刻を間違えたのだろうと推測しています。

次の列車で米子駅へ向かったのでは、“さんべ3号” の発車に間に合わず、翌日3日の試験を受けることができません。数日前からの降雪で道路状態は悪く、しかも、その日も雪が降っていました。姉は、「この自動車を運転しで、米子駅まで行く自信がない」と言います。どうしようかと話し合っている間に時間が経っていきました。時間的にもう無理かなと思いながら、駅前のタクシーの運転手に事情を話してみました。幸いなことに、その一人が「何とかしよう」と米子駅行を引き受けてくれました。姉の心配顔を後に、タクシーは出発しました。雪の中、走ること、走ること。運転手の問いかけに応答していましたが、そのうち話すこともなくなり、静かになりました。暗い後部座席で車の走行だけを感じていました。
1時間程して、「間に合いそうですよ」と運転手さんが声を掛けてくれたときは、ほっとしました。どうにか、“さんべ3号” に乗ることができました。

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翌朝7:30過ぎに"さんべ3号" は博多駅に到着しました。そこから大学の試験会場へ路面電車で移動し、一日目の最初の教科国語の試験に臨みました。寝台列車に揺られたせいか、頭がぼーとしていました。

一日目の試験を終えました。その日の宿を千代町あたりで探し、何とか見つけた小さな宿屋に泊まりました。凡夫と同じように、遠方から出て来たと思われる受験生が、何人か同宿していました。翌日、二日目の試験を受けました。

大学入試の季節になると、この “乗り遅れ事件” を思い出します。その度に、タクシーの運転手への感謝の念に堪えません。もし、あの時、間に合わなかったら、と考えると、その後の人生が、随分違ったものになったであろうと思います。人生の進路などと言うものは、ほんのちょっとしたことで左右されるものなのでしょう。

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