大学入学式の事件
2019 04 08 (art19-0123)
4月に入り、大学の入学式が執り行われています。早いところでは1日です。かつての凡夫がそうであったように、地方から出て都市部の大学に進む学生は期待と不安を抱えて入学式を迎えるのでしょうか。しかし、インターネット網が完備され、何処にいても同じ情報を共有できる今の新入生には、かつての凡夫が感じた不安は無縁なのかもしれません。少なくとも、都市部から発信される情報によって、単に ”知らないこと” に起因する不安の多くは取り除かれていることでしょう。しかし、40年以上前の状況は現今とは異なり、当時の凡夫は不安を抱えていたように思います。それが証拠に ”事件” が起こりました。1973年(昭和48年)4月9日、大学の入学式は挙行されました。「入学式開始直前に全共闘系学生が式場の記念講堂に乱入し演壇を占拠した。学生は機動隊によって排除され、50人が逮捕された」。凡夫のいう事件は、この乱入騒ぎではありません。凡夫は、入学式の会場に居なかったので、この騒ぎを知る由もなく、事後、ニュースで知っただけです。ある個人的事情のため凡夫は式場に行くことができませんでした。その顛末が凡夫のいう ”事件” です。
1973年 (昭和48年) 3月15日、大学の合格発表の日。凡夫は、米子駅発-博多駅着の夜行急行列車 “さんべ3号” で移動し、その日の朝、博多駅に降り立ちました。軽い朝食を済ませた後、路面電車で九大キャンパスへ向かいました。合格発表の掲示板に自分の名前を見つけました。当時の合格発表は受験番号でなく氏名そのものが掲示されていましたので、見つけるのは容易でした。早速、その場を立ち去り下宿を探しました。下宿と言っても、賄いのつかない、民家の一間を借りる “貸間” スタイルが多く、民家の軒先に “貸間あります” と書かれた札がぶら下がっています。そのような貸間札を探して歩きました。1つ目の札が出ている民家を素通りし、2つ目の札の民家を訪ねました。そこの家主さんから、“新入生は六本松の教養部校舎で学ぶこと” を教えられました。六本松の場所を尋ねると、親切?にも、六本松への行き方を紙にメモって渡してくれました。直線距離で 6.3km 離れていました。
メモを見ながら路面電車を乗り継ぎ、六本松に移動しました。大学前の広い道路(別府橋通り)に面して、何軒かの下宿斡旋屋が営業していました。その一軒の世話になり、下宿先を決めました。指圧業を営むNさん宅です。2階の廊下に沿って3つの和室があり、中央の部屋を借りました。両隣とも学生です。1階には、あやしげな商品を販売している中年のオッサンが、どう見ても学生には見えないのですが、学生のように間借りしていました。
さて、"事件" は、入学式の前日に起きました。
4月9日の入学式に合わせて2日前に下宿先に入り、送り届けた荷物の整理を行いました。間借りなので、荷物も少なく、もっぱら、六本松周辺や、賑やかな天神あたりをぶらぶらして過ごしました。体の変調を感じたのは、入学式の前日でした。腹痛です。それも強烈な。うめき声を漏らしていたのだと思います。隣部屋の学生達も戸襖越しに様子をうかがっていました。その内、家主夫婦が階段を上がってきました。家主さんは「痛みを取りましょう」と言い、凡夫の体のあちこちを指圧してくれましたが、一向に痛みが軽減しません。しばらく続けていましたが、ついに、家主さんは「病院に連絡する」と言って、階段を下りて行かれました。この様子を見ていた隣の学生達は、心配顔のまま、声を上げて笑い出しました。凡夫は、痛みが激しく、笑うどころではありませんでした。
家主さんの指示で、病院の患者となりました。近くの総合病院に入ると、痛みが軽減したように記憶しています。医者は、特にこれといった原因が特定できないようで、「緊張(今で言う、ストレス)からでしょう」と言い、「とりあえず、浣腸をして、様子をみましょう」と続けました。病院で一夜を過ごすことになりました。翌日には痛みがとれていました。郷里から駆け付けた父が退院の手続きを行い、二人で病院を後にしました。
一体、あの痛みは何だったのか、当時も、今も、分かりません。下宿先に帰り、家主さんの居間に皆で集まり、一連の騒動をあれこれネタにして談笑しました。特に、指圧のシーンは大いに盛り上がりました。家主さんが、指圧で痛みを和らげようと近づいて来た時の仕草が、”浪越徳次郎” が「指圧の心は母心、押せば命の泉湧く」と言いながら両腕を前に伸ばし両手の親指を上げるポーズと似ていたかどうか明言できませんが、凡夫の記憶の中では、しっかり重なっています。思い出す度に笑えます。
この事件で、凡夫は大学の入学式に参加することができませんでした。
腹痛を抱えた患者を前に、「とりあえず、浣腸をして、様子をみましょう」。このフレーズと同じものを、二十数年後の横浜で、救急車で搬送されたS病院の医者に言われたことがあります。こちらは、笑ってお終いにできるような話ではなく、一歩間違うと、命とりになっていたかもしれません。もっとも、今となっては、それはそれで笑えますが。