今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

準備

2019 12 30 (art19-0198)
ホームページを立ち上げてブログを始めた目的の一つは過去の出来事を書くことにあります。そうすることで、自分なりに過去を整理することになります。同時に、一度書いたものは残りますから、誰かが読みたくなった時に読むことができます。過去を書くこと、これは終末に向けた準備の一つと考えています。

中学を卒業すると米子高専に通うため実家を出て一人暮らしを始めました。その後、大学、大学院、そして、ポスドク、大学勤務、留学、就職 (製薬会社) と、実家から遠く離れて過ごしました。年に2度 (盆と正月) 帰省するようにしていましたが、数日の滞在中、父母の関心は凡夫の家族の暮らしぶりであり、話題はそれを中心に回り、親自身のことを話題にすることはほとんどありませんでした。凡夫も自分の研究のことで頭が一杯で、両親の人生に関心を寄せることはありませんでした。

定年退職後、帰郷し実家で暮らしてみると、時折、祖父母や父母の人生はどうだったのだろうかと考えます。しかし、困ったことに、祖父母や父母の人生が実際どのようなものであったのか、ほとんど知りません。年表をたどれば、大枠の歩みは分かりますが、そこには実体がありません。祖母も父母も大変苦労したことは推察できるのですが。
祖父が若くして亡くなり (1929)、祖母は30歳で3人の子供 (8, 5, 2歳) を一人で育てることになりました。曽祖父 (59歳) は生きていましたが、家族の生計は祖母が一手に担うことになりました。祖母が22歳で祖父の家 (K家) に嫁ぐ3年前の大火事 (1921) で、K家は一度焼失しています。さらに、祖母41歳の時の大火事 (1939) で、再び家を焼失しています。焼け跡地に建てた家は簡素なものであったと思います。戦争が終わった翌年 (1946) 、父 (26歳) は母 (22歳) と結婚しました。祖母48歳です。祖母は早々に仕事を辞めて隠居の身となりました。代わって母が家事一切を引き受け、3人の子供をもうけました。凡夫が中学まで過ごした家は、火事で焼け残った木材が随所に使われていました。かなりボロ家で、当時の写真を家内に見せると、驚いていました。凡夫が中学3年生の時 (1968) 、今の家が建造されました。両親にとって、この家を建てることは悲願だったのだと思います。その費用をよくも捻出できたものだと思います。どれ程大変だったのか実際のところはわかりませんが、一つ分かることは、日常のいたるところに倹約と節約が浸透していました。

気ままに自分の過去を思い起こしてはブログを書いてきました。それらのブログ記事を通読することで自分史のようなものが構成できるのでは、と考えています。自分の死は先のことだと思っていましたが、そうでもなさそうですので、ここしばらくは、できるだけ自分の過去を題材にブログを書いてみようと考えています。現在、気長に、肺機能の回復を待っているところで、趣味の木工工作や畑作業は出来ませんから。

今年は、家内がソテツの ”こも” 巻きを行いました。大晦日から寒くなりそうです。

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