津軽
2020 01 02 (art20-0199)
あけましておめでとうございます。旧年は、大変な目に遭いましたので、新年は、平穏に過ごせることを祈るばかりです。今年の正月も、遠くから子供達が来てくれて、元気な顔を見せてくれました。
さて、ちょっとした思い付きに誘われて、見知らぬ地へ足を向けることが誰にでもあると思います。凡夫も何度か経験しています。その一つは “津軽” 行きでした。
米子高専の一年生の夏、太宰治の紀行文(?) “津軽” を読んで、以下の表現に出会いました。竜飛に到着した時のものです。
もう少しだ。私たちは、腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向かって突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなくなった。
「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎とかんじたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して小さな家々が、ひしとひとかたまりにあって互いに庇護しあって立っているのである。ここは、本州の極致である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。
突然、"鶏小舎に頭を突っ込んだ" と感じる、情景はどんなものだろうか、と思い、ちょっと見てみようと、米子駅から上りの夜行列車に乗りました。昭和44年 (1969) の夏です。
夜の青森駅の構内や周辺には、大き目の角ばったリュックサックを背負って、ぶらぶら旅行をつづける若者(カニ族と呼ばれていました)が、多数、思い思いの恰好で寝ていました。青函連絡船を乗り継いで北海道を目指しているのでしょう。凡夫も、適当なスペースをみつけ、段ボールを下に敷き、上に新聞紙をかけて横になりました。、翌朝、津軽半島の東海岸を北上し、竜飛へ向かいました。
海岸沿いに整備された道が通っていて、その道なりに歩いて竜飛に入ってしまったため、”津軽” に表現されている鶏小舎に頭を突っ込んだような印象を受けることはありませんでした。太宰治が紀行文 (?) ”津軽” を書くために竜飛を訪ねたのは昭和19年 (1944) 5月です。当時は、凡夫が辿った海岸沿いの道はなく、海岸から少し内側を通る狭い道が部落の中を貫通していたのでしょう。小さな家々 (浜辺で見かける漁師の道具小屋のような背の低い小型の家に似ている) の並びの中ほどに道跡らしい広がりが確認できました。その道を歩いて竜飛の部落に近づけば、小さな家々が軒を寄せ合って集合しているところへ入っていくことになります。そのような小型の家々を、鶏小舎と表現し、小型の家々に取り囲まれた状態を鶏小舎に頭を突っ込んだと表現したのでしょう。言い得て妙です。文筆家です。
凡夫は、最初、これとは異なる情景を思い描いていました。暴風雨対策もあり、家は小さく、軒先は低く、狭い道の両側から重なるように飛び出た軒先の下を歩く我が姿に、腰を折って背を縮めるような姿勢、あたかも、鶏小舎で作業する時の姿勢、を連想したのだろうと、推察していました。
”津軽” は、作家の書いた紀行文風の小説でした。
帰路、三厩(だったと思いますが)の海岸に面した宿に泊まりました。朝、宿泊者が一階の板の間に集まって食事をしました。中に、何週間も滞在している人が数人いました。調べものやら書き物をしているようでした。 こんなのもいいかな、と思ったことを記憶しています。