今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

高専受験

2020 01 16 (art20-0203)
高専(高等専門学校)は、高度経済成長期に、工業分野での基礎学力の充実した実践的中堅技術者を養成するために設立されました。一般科目と専門科目をくさび状に配置し、1年目から徐々に専門教育が増えていく教育課程を採用しています。昭和37年 (1962) 年に、国立高専一期校として12校が開校しました。その後、短期間に全国に設置されます。米子高専は、昭和39年 (1964) に国立高専三期校として、機械工学科、電気工学科、工業化学科の3科で開校しました。昭和43年 (1969) には、建築学科が、昭和62年 (1987) には電子制御工学科が新設されています。また、平成6年 (1994) には、工業化学科が物質工学科に、平成16年 (2004) には電気工学科が電気情報工学科に改組されました。

凡夫は、米子高専(電気工学科)を中途退学し、大学入試を受けて大学へ入りました。大学から見ると、ちょっと遠回りしたことになります。以下に、普通高校へ行かず、高専へ行った経緯を記します。

中3の進路指導の面談で、先生から、「お宅の子は、普通高校には受からないが、高専には受かるかもしれない」と告知されました。普通高校と高専の試験日が重なり、どちらかを選ばなければなりませんでした。両親としては、できれば、姉と同じように、普通高校へ行かせたかったようですが、受からないと太鼓判を押されては、それを推し進めることができなかったようです。凡夫は、当時、将来のことは何も考えていませんでしたので、どちらでも良いと思っていたようです。結局、高専を受験することになりました。

進路指導の教師が、普通高校には受からないと判断したのは、納得できます。なにせ、成績は、数学と理科だけはよいのですが、その他は並ですから。一方、授業・生活態度に関しては、教師に目を掛けられていました。しかも、特別に。こんな具合です。授業中、隣の生徒と雑談していると、突然、教壇から降りて来た教師にゲンコツを食らいます。なぜか、隣の生徒にはゲンコツがありません。時には、何もしていないのに、突然、ゲンコツを食らいます。何もしていない、そうです、教師の話も聞いていません。またある日は、授業中、一人で、校庭に出て、ブラブラしていました。これまた、ゲンコツ付きの厳重注意です。しかし、何度もブラブラしていると、いつの間にかゲンコツがなくなり、そして、厳重がなくなり、単なる注意だけになりました。総じて、自分勝手に中学生活を過ごしていました。その分、内申書はひどかったと思います。少なくとも、1,2年生のそれは、間違いなくどうしようもないものだったと思います。担任の教師が、生徒生活記録帳をパラパラと捲りながら、赤ペンでの記述の多くに凡夫がかかわっていることを示しながら、凡夫に反省を促したことを覚えています。

こんな凡夫でも高専に合格しました。真偽の程は定かではないのですが、高専の入試は、内申書より当日の試験の得点が、特に、理数系(数学、理科)の得点が、重要視されると、言われていました。このことがあったので、進路指導の教師は、高専には受かるかもしれないと、言ったのだと思います。凡夫は、家での予習復習は我関せずでしたが、数学と理科だけはできました。特に、数学は。問題の解法を説明するために、教師の代わりに教壇に立つことも多々ありました。数学のT教師は、良い意味で凡夫に目を掛けてくれました。

高専に合格したことは、進路指導の教師を満足させたことでしょう。が、しかしです。その年(昭和44年、1969)の普通高校(東高)の入試は受験者全員合格でした。もし、凡夫が受験していたら、たった一人の不合格者になったのでしょうか。どうなったのか、気になるところです。

羽合中学校から4名が米子高専を受験しました。地元(羽合町)から試験会場の米子市彦名町にある高専への行き帰りには、T君のお父さんが付き添ってくれました。お陰で、皆、無事に試験を終えることができました。数日後合格発表があり、T君だけが不合格でした。こんなことがあるのかと、随分驚きました。同時に、凡夫ごときが合格して、T君にではなく、T君のお父さんに、すまない気持ちになったことを覚えています。

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