学位と論文
2020 01 30 (art20-0207)
一枚の写真があります。祖母を真ん中にして父と母が両脇に立ち、学位記(博士)を持っています。3人ともうれしそうな表情です。学位記を持ち帰った時、父は学縁に入れて仏間の鴨居の上の小壁にかけました。数日後、近くの親戚を集めてお祝いをしてくれました。写真はその時のものです。卒業研究で行っていた細胞分裂の実験が面白かったので、大学院に進学し研究を続行しました。数年後、研究成果を博士論文にまとめ学位を取得しました。この研究で4つの論文を学術誌に発表しました。論文は、沢山の人に読んでもらえるように英語で書くのが通例になっています。凡夫は英語の文章がスラスラ書けませんから、この作業は難儀でした。理由は英単語の使い分けを理解していないからです。中学と高専のころ、勝手気ままに過ごし、英語の勉強を怠った “付けが回ってきた“ といったところです。
今も、学術誌に投稿する論文を投稿規定に従って仕上げることは面倒な作業ですが、当時は、その前に一苦労がありました。まだ、PCどころかワープロも無い頃でしたから、英語文はすべてタイプライターの文字盤を叩いて、文字や記号を、パチパチと、紙面に印字していました。タイプミスがみつかると、初めからやり直すことになります。少し見てくれが悪くなりますが、間違い箇所だけを修正液で隠しその上から文字を打ち直することもありました。また、今日のような便利な画像のデジタル撮影・処理装置がありませんから、論文の図に用いるモノクロ写真を準備することも、大変手間が掛かる作業でした。フィルムの現像から印画紙のプリントまで、試薬の臭がたちこむ暗室に閉じこもって、手作業で行いました。
どうにか完成させた自信作の論文を、郵送便で、米国の学術誌の事務所に送りました。数ヶ月後に、学術誌の編集者から、凡夫が送った論文が返ってきました。添付の手紙には、これこれの箇所を修正して再提出するようにと書かれています。そして、追記として、“赤鉛筆の代金を請求します” とあります。「これ何?」と思いながら、返ってきた論文の原稿を見ると、一面真っ赤っかです。添削の跡でした。赤鉛筆でぎっしりと。「えっ!」と、短く、そして「あーー・・・」と、ちょっと長い唸り声を出していました。
ありがたいことに、当時の編集者は、論文の内容が発表に値する場合には、へたな英語を添削して返してくれました。(最近は、編集者が英語文を添削して返すことはなく、英語文が劣悪の場合は内容を問わず却下です) 凡夫は、英語論文の書き方を、編集者による添削から学習しました。通算の発表論文数が20を超えるあたりから、英語文の添削箇所がほとんど無くなりました。
大学院の生活費は、月3000円の授業料を含め、奨学金とバイトの稼ぎで賄いました。奨学金は定職に付いたら返済するつもりでした。しかし、大学院を出ても、結婚して家族ができても、定職に付かず研究機関を渡り歩いていました。家族を連れて米国に渡り、そこの研究機関にいた時に、父が全額を一括返済しました。帰国後、それを知って、驚くと同時に、ありがたいと思いました。学位記と一緒に写っている写真を眺めながら、つまるところ、父と母に思う存分勉強させてもらったのだなあと、改めて思い至ります。