自分史について
2020 02 10 (art20-0210)
読書は、今や、TV視聴と同じ娯楽の一つとなりました。家内が倉吉市の図書館を利用しているので、凡夫も何冊か頼みます。借りる本は、気楽に読める小説類が多いのですが、ちょっと毛並みの異なる本がありました。三田誠広著の「超自分史のすすめ」です。凡夫の最近のブログは、力作業(木工工作や畑仕事)を控えていることもあり、自分の過去を話題にすることが多くなりました。ある意味、自分史の断片を書いているようなものです。参考になりそうでしたので、読んでみました。著者の三田誠広って、あの「僕って何」で芥川賞 (1977年) をとった作家です。十数年前に、宗教小説、「空海」や「日蓮」を読みましたが、こんな種類の本まで書いているとは知りませんでした。読者にとって、他人の自分史に記述されている内容が事実かどうかはわかりません。衆人の知るような事件でない限り、検証しようがありません。ましてや、個々の出来事に即して内に宿る感情やら想念などは、本人以外知る由もありません。とすれは、記述内容の真偽をもって、本物と偽物を区分することはできません。
そうであるならば、真偽の区分より、常識的に考えて、自分史を最後まで読めるものと、読めないものに区分すればすむことだと、凡夫は考えます。事実から乖離し、過剰に装飾された自分史は、とても読めたものではありません。自慢話が延々と続くと、常識のある読者は辟易して読むことを止めます。
高専の3年生の材料力学の授業だったと記憶しています。講師から、幾度となく、自慢話を聞かされました。自身の自慢話ならまだしも、息子の話です。息子がいかに優秀であるかという自慢話です。某大学に入り大学院に進学し、大手の○○に入社している云々です。息子の幼少での神童ぶり?から始まり、中学、高校での優等生ぶり?、そして、○○での活躍ぶり?に及びます。授業の終わり近くになると始まる自慢話、うんざりでした。
辞書をひくと、自分史は、“自分が生きてきた歴史(生涯あるいは半生の出来事)を文章化したもの” と説明されています。三田誠広の本は、人生の出来事を文章化することを手助けするノウハウものです。入学、就職、結婚、転勤、退職など、人生の節目節目に起こったことや感じたことを引き出す手助けをしている本です。要所要所に短い自身の体験談を挿入して、幼年期、少年期や青年期にどのように肉親と関わっていたのか、 壮年期や中年期にどのように家族と接していたのかを思い出すように仕向けています。
自分史の第一の読者は自分であると凡夫は考えています。自分以外の読者を意識することなく、ただ、自分が読む為に書くのです。書きたいように書けばよいのですが、最後まで自分に読んでもらえるように、出来るだけ正確に思い出し、思い出した事柄をそのまま書くことです。しかし、真っ裸では風邪をひきますから、風邪をひかない程度の衣服を着せてあげます。
完成した一冊の本を読むことで、自分の半生ではあるのですが、あたかも、別人の人生をたどっているかのような感覚におちいれば良しとします。一人の人間の生きざまが浮かび上がればよいのです。
我々は、映画やTVのドラマやドキュメンタリーを観たり、本や新聞を読んだりすることで、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな生き方があることを知ります。全くの他人ではあるけれども、彼らの生き方に心を動かされたりします。また、同時代に生きていた自分の過去に思いを馳せることもあります。そうすることによって、我々は、自分の感性を磨き、想像力を養っています、そして、多くの人や事象に共感し、情緒豊かな日々を送ることができます。ここに於いて、自分の為に書いた自分史が、家族や知人だけでなく、他人の目に触れることに意味があるのでは、と凡夫は考えています。