研究生活-生命研の特研員(その1)
2020 02 13 (art20-0211)
大学院を修了し博士号をとったのですが、大学には残れそうにありませんでしたので、これからどうしたものかと思案しながら実験を続けていました。大学院での研究生活が楽しく、こういう生活が自分に合っているように感じていましたので、どこかに研究生活ができるところがないかなーと、漠然と思っていました。しかし、思うだけで、何の行動もしませんでした。そんなある日、Kさんから電話がありました。Kさんは教室の先輩で、凡夫の博士研究の相談役を務めてくれた人です。1年前に、三菱化成生命科学研究所に移り、特研員(特別研究員の通称、今でいうポスドクです)として研究をつづけていました。「XX君、こちらに来ないか」と尋ねられましたので、間髪を入れず「行きます」と返答しました。三菱化成生命科学研究所(通称、生命研、L研)は、1971年に、生化学者の江上不二夫氏を所長に迎えて、三菱化成工業(1994年に三菱化学となる)によって、東京都町田市南大谷11に設立されました。民間企業の研究所でありながら営利を目的とせず、純学問的な生命科学分野の基礎研究に特化した研究所として極めてユニークな存在でした。構成員は、およそ、研究員70名、研究助手50名、技術員10名、間接部門20名です。これに、30名の特別研究員(ポスドク)がいました。この特別研究員は、欧米のポスト・ドクトラル研究員制度を真似たもので、特別研究員の契約満期は2年間でした。2010年に “設立当初の役割を終えた” として閉鎖されました。
1984年4月から生命研の特研員になるため、町田市へ引っ越しました。福岡の荷物の大半は郷里へ送り、必要な物だけを下宿先へ届けました。下宿先は、小田急線の玉川学園駅近くに位置し、契約満期で退所した特研員の Kさんが住んでいた部屋です。Kさんは、生活雑貨をすべて残して部屋を退出してくれましたので、こまごまと調達する手間が省け大変助かりました。
送り届けた布団などの荷物の整理を終え、夕方、外出し、街並みの散策がてら周辺をブラブラしました。下宿のすぐそばに、当時、薬師丸ひろ子が在籍していた玉川大学がありました。大学のキャンパスに勝手に入りぶらぶらと歩いてみました。起伏に富み散歩コースには最適です。気を良くして次の日の夕方も出向きました。しかし、キャンパスに入ると警備員に呼び止められ、部外者は入らないようにと注意をうけました。残念でしたが、別の散歩コースを探さざるを得ません。しかし、生命研に通うようになるとその必要性はなくなりました。下宿から生命研まで約2kmの距離があり、しかも坂道でした。歩いて25分程でしたが、道程を変えたりしてぶらぶらにはなりました。
凡夫が入ったH室長の研究室は、通産省推進の大型プロジェクトからの補助金で潤っていました。その年には、1名の研究員(USA留学帰りのTさん)と凡夫の他に2名の特研員(東北大院出のMさんと名大院出のFさん)が研究室に入りました。生命現象を分子レベルで説明する分子生物学が台頭していた時期でしたから、3人の特研員は、生体分子の核酸(DNA、RNA)や蛋白質を解析する手法を学ぶ機会を得ました。
(今回は、ここまで、つづきは次回へ)