今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

研究生活-帰国と就職

2020 03 16 (art20-0220)
米国での生活は安定していました。ボスの好意のお陰で、一般の相場より多額の給料をもらっていました。また、毎年、ボスに給料アップを交渉して給料を上げてもらいました。その度に、ボスは「家族3人(後に4人)が生活するには十分な給料を払っている筈だが」と言い、どうして足りないのか不思議がっていました。確かに、周りの人と較べると多額でした。米国では交渉しないと給料は上がらないと聞いていましたので、実状はともかく、足りない足りないと言うようにしていました。後で聞いたのですが、日本からやってきた研究員で給料アップを要求したのは凡夫だけだそうです。

滞在期間を意識したことは無いのですが、退所するときに渡されたNIHの在籍証明書には、August 1989 – April 1993と記述されていますから、3年9ヵ月米国に滞在したことになります。渡米1年半後の1991年になると、ボスは日本のO大学に自分のラボを設けました。米国と日本のラボを行き来するようになり、米国のラボを不在にすることが多くなりました。また、日本からの派遣研究員は帰国しました。英国人のポスドクが去り、代わりに米国人ポスドクが入りました。ラボの状況とメンバーは変わりましたが、凡夫は左右されることもなく、自分の研究を続けていました。
1993年に入ると、3年間続いたリン酸化酵素を制御する蛋白質の研究が一段落しましたので、帰国を考えるようになりました。ボスに話すと、今は大学に適当な空籍がないと言うことだったので、2つの製薬会社に口利きしていただきました。スイスのバーゼルに本社がある外資系製薬会社と大阪に本社のある日本の製薬会社です。

日本に一時帰国し、両社の研究所へ出向きました。大阪の製薬会社の研究所(所在:豊中市)では、担当部門長が対応し研究所を案内してくれましたが、最終決定には至りませんでした。一方、外資系の製薬会社の研究所(所在:鎌倉市)では、所長室に通され所長のDHさんと面談し、仕事内容と組織体制、そして、サラリーとポジションなどアレコレ話し合いました。会話は全て凡夫の “得意?” の英語です。その場で、入社書類にサインしました。そのあと、凡夫の受け入れ部署の部長のMAさんに所内を案内していただき、帰りには最寄り駅まで見送っていただきました。入所後、MAさんには大変お世話になりました。

外資系の製薬会社を選んだのは研究所の中に入った時です。所長との面談はその選択を後押ししただけです。日本と外資系の会社の研究所の印象はかなり異なるものでした。日本の研究所を案内された時 “これは違うな” と感じました。その印象が残っているうちに、外資系の研究所を訪ねました。入った瞬間、“あっ、これこれ、この感じ” と思ったものです。さらに、通路を進むと、増々、その感覚が強くなりました。
研究所に入った時の印象に導かれるまま、1993年6月、39歳で外資系製薬会社の国内の研究所に入所し、9年間創薬研究に従事しました。2002年、会社は日本の製薬会社を買収し傘下に収め、国内の本部・研究所を統合しました。傘下に収めた会社の名称を日本での統合後の会社名として使用しています。この社名下で11年間研究所に勤務し、2013年60歳で退職しました。合わせて20年間、製薬会社の研究所に在籍していたことになります。
とりあえずどこかの製薬会社の研究所に勤め、頃合いをみてどこかの大学へ移るつもりでいましたが、入った研究所の居心地がことのほかよかったので、長居してしまいました。おそらく、日本の製薬会社の研究所を選んでいれば、こうはならなかったと思います。

5月、子供2人(娘5歳、息子1歳)を連れて帰国の途につきました。観光しながら帰ることにしました。ダーラムからユタ州のソルトレークシティーに飛び、その地で借りたレンタカーで南下しネバダ州のラスベガスを目指しました。途中、グランドキャニオンを観光。生命研で出会ったMさんが加わり、5人となり、ちょっと窮屈な車の旅になりました。ラスベガスを楽しんだ後、レンタカーを返してサンフランシスコへ飛びました。その地の観光を楽しんだ後、成田へ飛びました。

さて、小さな事件がサンフランシスコ空港の搭乗口で起こりました。家内が息子を連れて、自分だけの搭乗券を示して、通過しようとした時「ちょっと待て」と男性の係員に呼び止められて、息子の年齢を尋ねられました。家内が1歳10か月と返答すると「そんな筈はない、どう見ても2歳にはなっている」と言い張ります。家内は「なっていない」、係員は「なっている」と言い合いになりました。困りはてた家内は「それでは証明しましょう」と言いながら、パスポートを出そうとした時、傍にいた女性の係員が「この子のなりは大きいが、顔つきが幼稚に見えるから、2歳にはなっていないようだ」と発言して男性の係員を説得しました。男性の係員も納得したようで、通してくれました。当時(今もかな?)、アメリカの航空会社には、2歳以上は座席の確保が必要、つまり、大人運賃の航空券が必要、という決まり事がありました。

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