今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

本「峠越え」

2020 05 25 (art20-0240)
小説は随分読んできたと思いますが、その中で歴史小説はわずかです。学生の頃、森鴎外の作品を、全集を手に入れて、読んでいた時期がありますが、全集に「阿部一族」「護持院原の敵討」「最後の一句」「高瀬舟」などが収められていました。他には、「竜馬がゆく」と「坂の上の雲」などの司馬遼太郎の作品を読んだ程度です。ここに言う、歴史小説とは、歴史上の人物・事件を題材として、史実を踏まえて描いた小説です。歴史小説は歴史そのものではなく、あくまで小説ですから著者の頭の中で構想した物語です。

明智光秀を主人公にした大河ドラマ「麒麟がくる」が NHKで放映されています。明智光秀と言えば、本能寺に滞在していた織田信長を家臣の光秀が襲撃した事件 "本能寺の変" が頭に浮かびます。その襲撃は反逆とか謀叛とか言われていますが、本当のところはなんだったのでしょうか。なぜ光秀は信長を討ったのか。 これにはさまざまな説があるそうです。野望説、怨恨説、不安説、加えて朝廷関与説などです。しかしながら、光秀の動機が皆目分からないため、定説と呼ばれるものが成り立たないようです。“永遠のミステリー”と表現する人もいるとか。(参照:ウィキペディアの項目 “本能寺の変” )。

”本能寺の変” の主役の2人の行動が腑に落ちなくて、もやもやしていました。
(1)織田信長:城郭並の構えの寺院、本能寺に宿を取っているとは言え、護衛が貧弱で、無防備である。あまりに警戒心が欠如している。これでは、襲ってくれと言わんばかりである。残忍ではあるが、周到な計算ができる策士像とかみ合わない。
(2)明智光秀:信長を襲撃する前後の行動に計画性がない。事前の根回しもなく、事後の行動もおかしい。周到な準備の上での襲撃とは思えない。緻密で頭脳明晰と言われていた人物像とかみ合わない。

伊東潤の歴史小説「峠越え」(講談社、2014年刊)を読みました。信長と同盟関係にあった家康は、信長の家臣同様の忍従を強いられるが、その間、戦果をあげて出世していく。竹田家が滅び、北の防波堤としての家康の存在意義が希薄になる。それどころか信長の天下のためには家康が邪魔者になる。信長の家康排除計画がひそかに動き始める。安土への招待、そして京都・大阪への招待。しかし、家康はしぶとく難をのがれる。本能寺で信長横死後、数々の襲撃をかわしながらどうにか伊賀を超えて国元へ戻る。

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この本の中で著者は、"本能寺の変" の真相を、信長が家康を本能寺に招いて、光秀に撃たせると言う信長の策略であったとしています。信長の計画:家康に他意がないことを示すため本能寺の警護をゆるくして家康を本能寺に招く。本能寺に家康を残して、こっそり寺を抜け出て光秀に合図を送る。光秀は本能寺を襲撃し家康を討ち取るという手筈。しかし、この計画を事前に察知した家康は、本能寺に出向かず、光秀に偽の合図をおくって信長のいる本能寺を襲撃させた。光秀は誤って信長を討ち取ることになった。この信長の策略とその顛末、凡夫にはストンときました。歴史的真実のほどはともかく、"本能寺の変" にこびり付いていたもやもやが解消しました。

歴史は、時がたつと新たな史料が見つかり、より真実に近づくことがありますが、”本能寺の変” にかんしては、光秀の動機に関する史料がなく、今後も発見される可能性がほとんど無いそうですから、真相は永遠に解明されないかもしれません。“永遠のミステリー” たる所以です。とすれば、どのような説や解釈も成り立ちます。自身を囮につかって家康をおびき寄せ光秀に討たせるという信長のシナリオ、大いにあり得えます。

ところで、かつての本能寺は堀川四条の近くにあったそうです。”本能寺の変” で全焼しましたから、豊臣秀吉が寺町御池に再建したそうです。それが現在の本能寺です。すぐ傍に、饅頭屋 ”亀屋良永” があります。御池煎餅で名を馳せていますが、凡夫は、ここの羊羹 ”小倉山” がお気に入りで、京都在住中に幾度となく賞味しました。

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