今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

鳥取城跡

2020 09 28 (art20-0276)
先週の4連休、県外ナンバーの車を多数見かけました。鳥取砂丘の人出は前年以上であったとマスメディアは報じています。新コロ感染はまだまだ続きそうですから、感染防止対策を疎かにしないようにしたいものです。

連休3日目の21日、鳥取へ行きました。鳥取城跡に ”丸い石垣” があると家内が言いますから、どんなものか、ドライブがてら観てきました。
国道9号線を海岸沿いに東へ走りました。好天のもと、海の青さが際立ち、波が、所々、海岸に打ち寄せています。波の上にはサーファーの姿があります。彼らは道の膨らみに車を停めて海岸へ下りて行くようで、ウエットスースを身に纏い、車の周辺をうろうろしています。サーフィンに興ずる人は若者と思っていましたが、どうしてどうして、中年の人も多く見かけます。一度サーフィンの魅力に取りつかれると抜け出せなくなると聞いていますが、そうなのでしょう。

鳥取城は、久松山(263m)の山頂にある山城(山上の丸)と山麓にある城郭(山下の丸)から成り立っています。山城は戦国時代因幡の守護山名氏によって築城された。山麓の城郭は、豊臣秀吉の家来の宮部氏(5, 6万石)によって造られ、関ケ原の合戦後、因幡伯耆の領主となった池田氏(32万石)によって拡張整備された。明治に入り治安が安定すると、建物が撤去された。昭和18年の鳥取大地震によって、城跡は崩壊した。石垣の修理や建物の復元整備をおこなっている。(鳥取市刊の 「鳥取城跡の冊子」より)

276-1_tottorijou_web

県立博物館の駐車場に車を止めて、城跡見学に向かいました。駐車場の向かいの仁風閣を右手にみて少し進むと西坂下御門(復元)です。門をくぐり、石垣沿いに登ると二ノ丸にでました。建造物はなく平地に樹木が植わっています。二ノ丸の東の山側に鎮座する稲荷神社の鳥居をくぐり神社横の道を登って天球丸へ向かいました。天球丸にも、一つの建物もなく、平地です。眼下に県立鳥取西高等学校の校舎が見えます。そこは、かつて三ノ丸だったそうです。

276-2_tottorijou_20200921 276-3_tottorijou_20200921

ところで、下調べもせず、お城見学にきましたので、目的の "丸い石垣" がどこにあるのかわかりません。天球丸の名前から、これの石垣が丸くなっているのかと思い、天球丸の石垣を上から覗きながら淵を歩いてみました。普通の石垣のように見えたのですが、石垣の一部が球面状に膨らんでいます。どうやら、これが、家内の言う "丸い石垣" のようです。表示板に巻石垣とありました。後で知ったのですが、これは、2011年に修復・復元されたものです。江戸時代後期(1807頃)、背後の石垣が孕み出て来たので、崩壊防止のため築かれた球面石垣だそうです。こうした巻石垣は港や河川の工事に用いられているそうですが、城郭の補強に用いられるのはきわめて珍しいとか。なお、天球丸は曲輪の名称で、池田氏の姉、天球院が居住していたことに由来するとのこと。"丸い石垣" とは関係なしでした。

276-4_tottorijou_20200921

これで帰るつもりでしたが、家内が山城跡を見てみようと言いますから、久松山に登ることになりました。高い山ではないからと、軽く考えていましたが、実際登ってみると、石段が崩れている箇所もあったりして、かなりきつい行程となりました。何度か休憩をとりながらも足を動かし、なんとか山頂に立つことができました。城の建造物はなく石垣が残っているだけです。しかし、ここからの眺めはすばらしく、登ったかいがありました。千代川流域に広がる鳥取市が一望できました。

276-5_tottorijou_20200921 276-6_tottorijou_20200921
   


 【戻る】