米子城跡
2021 1 18 (art21-0308)
辺りには、まだ、先の寒波がもたらした雪がちらほら残っています。すこし寒さがゆるんだ14日、久しぶりに米子へ出かけました。用事がてら米子城跡を見学してきました。米子へは家内の運転で1時間のドライブです。2人でどこかへ出かける時は、車を使う機会がめっきり減った凡夫に代わり、常日頃車を使っている家内が運転することが多くなりました。米子城跡は、米子高専生の時、一度、訪ねたことがあります。しかし、内容は全く覚えていません。ただ、城跡から眼下に中海が見えたことを記憶しています。
米子城は、湊山(90m)の山頂に築かれた城郭で、本丸には五重の天守閣と四重の副天守閣を備えていたそうです。この姿容は、関ケ原合戦の翌年 (1601年) に伯耆国の領主 (18万石) となった中村一忠(当時12歳)が、執政を勤めた家老の横田内善のもとで、完成させたものだと言われています。明治5年(1872)に廃城となり、民間に払い下げられました。しかし、城を維持することができず、建物の大半が売却され、取り壊されたそうです。現在は、礎石と石垣だけが残っています。
児童文化センターの駐車場に車を停め、湊山公園に入りました。公園に隣接する中海や園内の “猿が島” のサルを見物した後、公園の南端の城山登り口から米子城跡をめざしました。案内板には、山頂まで 15分とあります。
びしょびしょの雪解け階段を登ると、分岐点です。左は内善丸跡へ、右は本丸跡へとあります。
左の道に入り、内善丸跡へ向かいました。内善丸という名前は、城主中村一忠の時、城の大改修を指揮した家老横田内善に由来しているそうです。また横田内善は、交通や河川を整備し商都米子の礎を築いた人と言われています。内善丸には、かつては二重櫓や武器庫が複数立ち並んでいたそうですが、今は、何もない広場です。ここから、天守の石垣が樹木の間に見えました。
分岐点に引き返し、本丸跡へ向かいました。石段を登り、番所跡を左横にすると、前方に、四層の石垣がその壮大な姿を現します。かつては、右の石垣台に天守の五重櫓が、左の台に副天守の四重櫓が立っていたのでしょう。今は、櫓こそありませんが、この石垣だけでも見応えがあります。石垣の重なりにちょっとした凹凸があり、見る位置によって姿を変えます。
石垣の壁沿いに進み、左端に位置する四重櫓の石垣台を回り込むと、石垣の一つの大きな壁を見上げることになります。
更に進むと両側の石垣が迫ります。ここは鉄門跡で、大きな門がデンと座っていたのでしょう。ここから、前方に、本丸の石垣が見えます。本丸広場に立つと、風が強く寒さを感じます。本丸跡地はぼぼ平坦で、天守の石垣台も段差がほとんどありません。しかし、その石垣台に立つと、米子市街、中海と弓ヶ浜、そして遠くには日本海が一望できました。