今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

本『清貧の思想』

2021 7 26 (art21-0357)
中野孝次の本「清貧の思想」を読みました。1992年出版ですから、著者67歳の時の作品です。当時、凡夫は40歳前で、米国で研究を続けていました。帰国後、この本を手に入れたようですが、ちゃんと読んだ記憶がありません。この度、時間をかけて読んでみて、この本は、現下の凡夫のように、一線を退き365日気ままに暮らしている老人向けの本だと思いました。もっとも、凡夫は、気ままとは言え、家庭菜園等で忙しくしています。なお、氏は、講談社から出ている「すらすら読める徒然草」や、「すらすら読める方丈記」の著者でもあります。

357-1_book_20210723

本阿弥光悦、鴨長明、良寛、池大雅、与謝蕪村、吉田兼好、松尾芭蕉、西行などに関わるエピソードを紹介しながら、彼らの自由かつ枯淡な生き方をうきぼりにしています。そして、かつての日本には、単なる貧しい暮らしではなく、富を求めようとせず貧しい暮らしに身をおこうとする考えがあったと論考しています。簡素な暮らしのなかに清らかな行いを求める思想があったと。物欲に心を奪われることなく、いつも人間の大事に心を及ぼすことのできる生の在り方、「清貧の思想」があったと。

自分が死ぬことは、人間の大事なのですが、吉田兼好の「徒然草」の155段にはこう記されています。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。
死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。


人の命ははかないもので、人は必ず死ぬ。いつ死ぬかもわからない。では、どうしたらよいかと伺うと、同書の93段にこうあります。
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、
この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。
生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。
死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。
もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。


この歳になると、時折、自分の死を考えます。新聞の鳥取県版の片隅に、“お悔み申し上げます” の記事コーナーがあります。それは死者のリストで、住所、氏名、性別、年齢が記載されています。年齢を見ると、男性の場合、多くは、70と80代ですが、中には、60代の人もいます。リストの中に自分と同年齢の人を探している自分に気づきます。

今のところ、そろそろかなと、時折、思うだけで、今生きていることの喜びを感じたいとか、今ある生を大いに楽しもうなどとは思いません。「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」とは無縁のようです。なんとなれば、死を恐れて憎むようなことはなさそうですから。

家庭菜園を行うようになって、死が身近になっています。虫はいたる所で死にます、また、簡単に死にます。そうした、虫の死、命の終わり、をみていると、人の死が特別なことではなく、虫の死と変わらないだろうと思えます、否、感得できます。死は、恐れるようなことではなく、ましてや憎むようなことではないと。虫の死がそうであるように、人の死も、死は死でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのですから。

話が、ちょっと、逸れたようですな。ミアネヨ。

357-2_flower-iceplant_20210621
   


 【戻る】