本「されどわれらが日々」
2022 2 14 (art22-0415)
柴田翔の「されどわれらが日々」(文芸春秋、1964年刊)を、お気に入りの本棚から抜き取り、読み直してみました。この本棚には、かつて、学生の頃、読んだ本のなかで、いつか読み直すであろうと思った本が収納されています。1950代、全学連が大衆闘争と武力闘争の2本立てから、武力闘争に比重を移した頃の話です。これは、当時の全学連の指導組織である日本共産党の方針に従ったものです。党は、中国共産党の路線を模倣し、革命における農村工作の重要性を説き、中核自衛隊を創設しました。学生たちは、中核自衛隊に入り山村工作の任務につくため、学舎を離れて、続々と農村へ向かいました。
ところが、党は、1955年、6全協(共産党第6回全国協議会)において、方針転換を行った。敵対していた国際派と所感派の和解と統一、集団指導体制への移行、そして、武装革命路線(極左冒険主義)との決別。
『されどわれらが日々』には、“党は唯一絶対”という信仰が崩壊した後の学生達の生態が描かれています。党を信じて疑うことのなかった学生活動家/党員やシンパ学生の混乱と衝撃そして虚脱感。ある者は投げやりになり、ある者は空虚な自己を持て余す、ある者はノイローゼとなり、ある者は自死する。
それにしても、登場する学生は、いずれも、頭でっかちというか純粋というか、奇妙な人達です。ねちねちとした内省にはうんざりします。繰り言のようなうだうだにはついていけません。これは、若者特有の脆弱性や自虐性を忘れてしまった年寄りの所感にすぎないかもしれませんが。しかし、学生時代にこの本を読んだ時も、共感するようなことは無かったと記憶しています。
ただ、曽根が吐露した信条には共感できるものがあります。確かなものが何一つない状況下や、怪しげな状況下で、立ち続けることができそうです。
「僕は、一つだけ自分に課して、守ろうとしていたことがある。それは、どんなに多くの人が賛成することでも、どんなにうまく形が整っていても、ただ、自分で考えてみて、隅から隅まで納得の行くこと以外は、何も決して信じまいということなんだ」
この本は1964年に出版され、ベストセラーとなり、60-70年代の若者のバイブル的存在になったそうです。当時の若者は、偏執な思念をうだうだと読まされたがったのでしょうかな。