家について
2022 4 11 (art22-0431)
今、両親が残した家に家内と2人で住んでいます。天気がよい日には、庭に出て、草木の世話をしています。家内はもっぱら草抜きとプランターでの花栽培で、凡夫は庭木の剪定です。春になり、木々やプランターの花が家を取り囲んでいます。
自分が庭いじりをすることなど、若い頃には、想像もできませんでした。テレビドラマの一シーンなどで、老人が庭木の手入れをしている姿をみて、他にすることはないのかなーとか、ああはなりたくないなーと思っていました。そんな自分が、今では、そうなっているのです。他にすることがないので、仕方なくやっているのではありません。凡夫は、今も、興味の赴くままアレコレやっています。しかし、時折、庭に出て、草木に触れたり、不用な枝などを切り取ったり、ツツジなどに付着した落葉を払ったりすることが、心地よいのです。
この歳になって、家の役割とはそうしたものか、と分かります。
凡夫夫婦は、自分達で家を建てることができませんでした。39歳まで各地を転々としていましたから、自分の家を持つ考えはなく、借家住まいでした。39歳で,所謂、定職につきました。しかし、家を建てるには既に遅く、数年後、横浜のマンションを購入しました。60歳で定年退職し、京都で3年ほど過ごした後、ここ湯梨浜町に移住し、両親が建てた家に住んでいます。
若い夫婦であれば、ローンを組んで、家を建てることができます。都会では、土地が高く、相当な額のお金が必要になります。また、そこでは生活費も高く、ローンを返済するために夫婦で働くことになります。ローンは30年から35年です。
言うなれば、家を建てることは、2人の壮健時の人生のぼぼ全てを捧げることで実現するようなものです。従って、どのような家を建てるかは、よくよく考える必要があります。
若い2人のその時の都合(通勤の利便性、それであれば、勤務地近くのマンションを購入することです)だけで、決めることではありません。若い2人も、いづれ歳をとります。老後もその家で暮らすことになります。また、子供ができれば、子供はその家で成長することになります。
家はそこに住む人に影響を与えます。住み心地として、また、外部の人の眼を通して。
さて、どうした家がよいのか。この歳になって分かることがあります。一言で言えば、ゆったりとした印象をあたえる家で、屋内は明るく、窓を開放して暮らせる家です。
家屋の周りにある程度の空間があれば、家屋の大小を問わずゆったりとした印象を与えます。その空間で、子供がいれば子供といろいろなことができます。歳をとれば、それなりなことができます。敷地一杯に建物が占めていて、空きが無い家はいただけません。
どの部屋にも、外の光が入ってくることです。隣家の壁や石垣で取り囲まれているような窪地のような土地に建っていて、光が遮られる家はいただけません。そんな立地では、隣家の視線が降り注いでくるでしょう。
騒音や排気ガスのため、窓をいつも締め切っているような家はいただけません。いつでも、窓をあけて、外の空気をとりいれることのできる家です。
こう書いてくると、そうした家は、正に、両親が残したこの田舎の家です。田舎の家は、建物に大小があっても、敷地が広くとってあります。これが、ゆったり感を醸し出しています。こちらでは、どの子供ものびのびしていますが、その一因といってもいいかもしれません。
今日は、縁側の机に向かって、庭を見ながら、このブログを書きました。