今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

 

本「世紀の発見」

2023 2 6 (art23-0517)
3日のA新聞の天声人語に、20年前の、小学1年生の詩が引用されていました。""玄関を開けて、まだランドセルも下さぬうちだろう。”ただいまあ/ あのね きょう学校でね/ あのね きょうお休みの人はね/ あのね きょうのきゅうしょくはね”” 子供は親、特に、母親にあれこれと、思ったり感じたことや出来事を話したがるようです。
これに類似したことを磯崎憲一朗の小説「世紀の発見」(河出書房新社、2009年刊)で読んだような覚えがあり、書棚から本を抜き出して読み直してみました。

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3年ぶりに帰省して母親に会った息子に、父親が言います。
「そりゃ子供というものは、何があったとしても、いつかは母親にそれを話さずにはいられないものだからな」と。

この小説では、自転車を乗り回し、森で遊んでいた頃の何でもない日々がダラダラと語られていますが、所々に、不思議な体験や説明のつかない奇妙な出来事が挿入されています。夏の夕方に巨大な黒い機関車を見たこと、公民館の中庭の池でマグロのような巨大なコイを見たこと、保健所へ送られた飼い犬のポニーが逃げて帰ってきたこと、アカタテハを追いかけて森に入り友人のAとはぐれてしまい、それっきりになってしまったこと、など。
誰でも、子供の頃には、こうした類の不思議な体験をしたりや奇妙な出来事に出会ったりするものです。読み進めていくうちに、懐かしさを覚えます。その為か、不思議と退屈することなく読めます。それらは、現実で起こったことなのか、夢でみたことであったのか判然としないのですが。

この本では、こうした体験や出来事は懐古にとどまらず、母親に繋がっていきます。
” こういう事件は母と関係があるように思えてならなかった、もっといってしまえばこれらはすべて母が仕組んだことなのではないかという気が、彼にはしてならなかったのだ。”
”彼がいままで経験してきたことも、これから経験することも、そのいっさいは母へ報告することを前提として起こっていた。・・・・「お母さん、今日はこんなことがあったんだ」男の子というものはまるで、母親に報告するためだけに、人生の一分一秒を生きているようなものだ。ところが、母はすべてお見通しなのだ、すべては母が仕組んだことなのだ。”

子供、特に男の子にとって、母親は特別なのでしょうな。


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