原っぱ
2024 8 1 (art24-0672)
今日も、暑い一日になりそうです。今朝、早く起きて、カキの木に農薬を散布しました。柿の木は2本、次郎と平核無です。終了時、まだ日が高くなかったので、3本のプルーンの木の高枝を払いました。脚立に乗って行う作業ですから、3本とはいえ、かなり時間がかかりました。終わった時には、日が高くなり、日差しが強くなっていました。汗びっしょりになりましたが、これで、プルーンの木に農薬を散布する準備ができました。
さて、本題です。
石井英夫の著書「日本人の忘れもの」に、ある雑誌の座談会の席での話が載っています。『昭和にはあってが、平成になくなったもの』が話題となり、昭和天皇、肥後守、ちゃぶ台、ガリ版、銭湯、都電など、いくつかの意見があがり、その中の一つに原っぱがあったそうです。原っぱとは、公園で見かける遊具、ブランコ、スベリ台、シーソー、ジャングルジムなど、が何一つ設置されてない、単なる空き地のことです。多くは草が生えています。
原っぱには何もないので、子供たちは必要な空間を占領して自由に遊ぶことができたそうです。遊び方を工夫したり、勝手に創造したりして遊んでいたそうです。こうした原っぱでの遊びは、東京だけの話ではなく、凡夫の田舎でも同様でした。
凡夫が小・中学生の頃(昭和30年代)、子供は原っぱで遊んでいました。東郷湖の近くに大きな原っぱがありました。そこが近所の子供たちの遊び場の一つになっていて、学校が終わると、誰彼ということなく集まって何かしらの遊びに興じていました。これと言った遊びはなかったのですが、しいて種別すれば、野球、陣取り、鬼ごっこ、缶蹴りなどでしょうが、いずれも、”もどき”、です。学年はごちゃまぜで、上級生もいれば下級生もいます。体の大きさもさまざまです。ほとんどの遊びが全員参加で、集まった子供の数や学年構成に応じて遊びの内容やルールが変わりました。また、遅れてやってきた子供も、すぐに参加できました。日が傾き、暗くなるまで遊んでいました。
田舎には、今も、原っぱがあります。休耕地がそれです。家屋の解体跡の更地がそれです。また、何かに使おうと整備された土地が長いこと放って置かれています。至る所に、原っぱがあります。しかし、原っぱで遊んでいる子供の姿を見かけることはありません。今どきの小・中学生は、どこで遊んでいるのでしょうか。