昭和の遊び(2)
2024 8 15 (art24-0676)
夏の暑さはお盆までと言いますが、今日も外は炎天です。こう暑いと、外出する気にもなれず、一日中、冷房の効いた部屋でグダグダと過ごすことになります。しかし、果樹を枯らす土壌の乾燥は待ってくれませんから、午前中、意を決して、ポンプ車(4輪台車にエンジンポンプとホースを積載したもの)を繰り出し、畑全体に水を撒きました。二回目です。さて、本題です。
中学生になると、遊びが変わってきました。中学では、通学していた羽合小学校と近隣の2つの小学校(長瀬小学校と宇野小学校)の生徒が一堂に会しましたから、ちょっと質の異なる生徒の混合体になりました。長瀬小学校から来た生徒は、粗野な我々と違って、いくらか洗練されていました。もっとも、同じ片田舎のことですから、その差は知れたものですが。ただ、おどろいたのは、家で勉強していた生徒がいることでした。家の手伝いと遊びでいっぱいいっぱいであった我々には、家で勉強するという習慣はありませんでした。これは、中学に入ってからも変わりませんでした。
中学生になると、クラブがあり、多くの生徒はクラブに入りましたから、放課後、原っぱに出かけて、皆と遊ぶことは少なくなりました。凡夫も、軟式テニス部に入りました。しかし、一週間でやめました。理由は、コートの周囲でポール拾いを毎日やらされたからです。これまでやってきた遊びでは、全員が参加できました。上手も下手もなく皆で一緒に楽しめました。と言うよりは、誰でも楽しめるように遊び方を工夫していました。クラブは遊びとは異なることが分かり、クラブとは縁がなくなりました。
中学に入って、やっていた遊びは多くはありません。
卓球
公民館の一階に卓球台が3台置かれていました。館への出入りは自由でしたから、誰でも、いつでも、卓球を楽しむことができました。ここでは、小中学生、一部高校生が入り乱れて卓球の試合を楽しんでいました。勝った方が残り、負けた方が交代していました。小学から中学と卓球をやっていましたから、今でも卓球を楽しむことができます。
バトミントン
公民館の傍の広場に、バトミントンコートがありました。そこで、近所の子供と白いシャトルが見えなくなるまでやっていました。
海遊び
夏は海で遊びました。家から橋津の海岸までは1.5km、自転車のペダルを踏んで出かけました。ほぼ、毎日。夏休みが終わり、水泳の授業時に日焼け品評会?がありましたが、真っ黒になった生徒の一人でした。海では、泳ぐというより、サザエやウニを採ったり、魚をヤスや水中鉄砲で突いたりしていました。水中鉄砲は自作です。当時、海で釣りをする生徒はいませんでした。釣りは、もっぱら、東郷池でやりました。
他には、悪ガキ仲間の一人が父親のオートバイを乗り回していたので、借りて乗っていました。この体験は、高専入学後に、中古のオートバイを手に入れることに通じています。
小学生のときは、自分たちでルールを変更したり、作ったりして勝手に遊んでいましたが、中学では、ルールに則った遊びになりました。スポーツに近いものと言えます。こうなると、昭和の遊びとは言えなくなります。
また、中学生になると、1人で何かをすることが多くなり、皆で遊ぶことが減ってきました。
クサギカメムシの幼虫。脱皮直後のようで、体色が白っぽい。