今日も終わった
2024 12 2 (art24-0705)
家内と夕食を食べながら、「今日も終わった」、そして「何もしていないのに、一日が終わってしまった」と、毎日のように、口に出しては肯いています。確かに、朝起きてから夕食まで何かをやった覚えはないのに、一日が終わっています。何をやっていたのか思い出そうとする凡夫に、家内が「今日は、本を読んでいたでしょう」と、声をかけます。確かに、本を読んでいたようです。しかし、一冊の本を読み終えるのに何日もかかると、一日では、ほんの数ページしか読んでいない日もあります。若い頃のように、数時間で一冊の本を読めれば、ああ、今日はおもしろい、あるいは、つまらない本を読んだなーと、思い出すことでしょうが、一日に、数ページでは、そうした感想にはなりません。もっと言えば、読んだところの内容すらも、思い出せないこともあります。これは、ボケている訳ではなく、ほんの一部だけを読んだのでは、印象に、そして記憶に残らないのです。
おそらく、万事がこのようで、何事をやるのも、動作が緩慢で処理スピードが遅いため、やたらと時間がかかります。
一昨日などは、自作の木工用集塵機につないでいた家庭用掃除機が稼動しなくなったので、PCに向かい、安価な代替品をネットで調べました。適当な製品を探し終えてPCから離れると、半日が終わっていました。たかが製品の検索にです。
どうして、こうもとろいのか。否、とろくなったのか。こう問うても、老人はそんなもんだろうとの声が聞こえてきます。老人の特質の一つといえばそうなのでしょう。
何もしていないのに一日が終わってしまうのは、何もしていないのではなく、何もしていないように思われるほどしかしていないからと言えそうです。あまりにもわずかであるため、やったことが思い出せないのです。そうした一日をふりかえったとき、ああ、何もしていない一日だったなーとなり、そんな日はとても短く感じられます。
