今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

本『断作戦』

2026 1 29 (art25-0826)
古山高麗雄の「断作戦」(小学館 2024年刊)を読みました。これは、1982年に文藝春秋で発刊された本の復刻です。なお、「断作戦」は「龍陵会戦」・「フーコン戦記」との三部作の一遍です。

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断作戦とは、戦争末期のビルマ北部と雲南地域において、「軍ハソノ主力ヲ芒市周辺ニ結集シ 雲南遠征軍主力ヲ龍陵方面ニ撃滅シテ怒江ノ線ニ進出シ 以テ拉孟 騰越守備隊ヲ救援スルト共ニ印支連絡路ヲ遮断ス」との方針の基に計画された作戦のことです。断とは、中国国民党への物資支援ルートの遮断の意です。計画の目論見は、孤立した守備隊の救出と遠征軍の反攻撃砕だったのですが、南ビルマから雲南への部隊の転進は時間を要し、救援は間に合わず、守備隊の拠点、拉孟 騰越、龍陵は全滅しました。

この本は、遠征軍(連合軍)の反撃がつづくなか、中国国民党への物資支援ルートの遮断拠点を守ろうとした守備隊の結末を、生還した二人の元兵士の回想でつづったものです。騰越玉砕の、龍陵玉砕の、体験録です。

「1センチの弾道の差で助かった自分が、玉砕部隊の、指折り数えられるほどの生き残りの一人として帰国し、世帯を持ち、今は孫がいる」
「戦場では、生きるも死ぬも、運としか言いようがない。助かった者には、ああいう幸運が最後までつづくのである。一度でも、それが跡切れたら、人は死ぬのである」

著者は昭和17年、仙台市榴岡の歩兵第4連隊に配属され、第二師団司令部に転属、管理部衛兵隊に所属し、ビルマなど南方戦線を転戦。ラオスにて終戦を迎えたそうです。
同時期、父は、昭和16年鳥取歩兵第40連隊に現役入隊し、満州派遣軍の傘下に入り、(満州国)三江省興山へ。松江歩兵第63連隊に配属され、鉄5447部隊に編入。衛生兵として医療、看護を行う。昭和18年、中支戦線へ、そして、20年朝鮮水原へ、そこで、終戦を迎え、復員する、との記録が残っています。

いくつかの運が重なって、ある人は戦場で死に、ある人は生き残ります。父もそうした運が重なって、生きて帰ってきたのでしょう。もし、父が戦死していたら、我が家は、どうなっていたのでしょうか。
父は、戦時中のことを話すことはありませんでした。しかし、一つだけ、誰から聞いたのか定かではありませんが、覚えていることがあります。 父は、近視で、しかも乱視でもあったため、射撃不能と言うことで、戦闘兵士ではなく、衛生兵としての任務に就かされたと。医療、看護の特別な技能があって衛生兵として徴用されたのではなく、招集後の軍事訓練で、兵士としての適性に欠けたので、衛生兵の任務を与えられたそうです。父はそのことがくやしかった、と。

体験者でなければ知りえないことがあります。どんなに想像力を働かせても届かない世界があります。その一つは、集団としての殺し合い、戦争です。こうした戦争体験記の類を読んでも、それに届くことはありません。
父の4年間の戦争体験、どんなものであったのか、知ることはできないのですが、父は生きて帰ってきたのです。そして、母と結婚して、3人の子をもうけました。その一人が凡夫です。


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