高専の中途退学
2019 03 18 (art19-0116)
先のブログ ”大学受験”(art19-0100) で、米子工業高等高専学校(高専)を退学したことに触れました。以下に、その経緯を記述します。米子高専は、1964年に国立高専3期校として、機械工学科、電気工学科、工業化学科の3科で、開校されました。場所は弓ヶ浜半島の彦名町で、米子市内から少し距離 (7km) がありました。凡夫は1969年に入学しました。まだ、卒業生は出ていなかったのですが、ちょうど、5年生までの全学年生が揃っていました。
退学の手続きだけが進行した。 父に「高専を辞めることになった」と電話で伝えた。父は「分かった」とだけ言い、理由を聞くことはなかった。聞かれても、分かるように説明することはできなかったであろう。数日後、米子に来た父と二人で、学校に出向いて、退学届けに署名し捺印した。校舎を出て、父と並んで歩きながら、暑いなーと感じたことを明瞭に覚えている。
あのささやきには、高専を辞める意志は無かった。ただ、企業実習に興味が無く、行かなくて済むなら行きたくないなといった単純な厭気が口に出たのだろうと思う。面談部屋を出ながら、どうしてこうなってしまったのだろうかと、自問していたことを記憶している。
しかし、いつかは高専を辞めるであろうことは分かっていたように思う。ただ、それがいつになるか、分からなかっただけであると。
高専に入学し、一間のアパートに住んだ。いろいろな人に出会い、いろいろなことを体験した。中学を出たばかりの田舎者の凡夫には、多くが刺激的であった。後から回顧すれば、大学に入ってから味わう世界に、中学を出たばかりの若造が入り込んだような状況であったと思う。入学早々に覚えたタバコ、パチンコ、麻雀は、逆に、大学に入ると止めた。酒も飲んでいた。こちらは、体を痛めたため、大学院の時に止めた。
住んでいたアパートは、南の繁華街と北の学校の中間に位置していた。学校へは、中古の自転車で通っていた。2年生になると、アパートの出口で一瞬躊躇し、北へ向かわず、南へ向かうことが多くなった。市内の朝日町には、ジャズ喫茶「いなだ」があった。2階に上がり、薄暗い部屋でジャズを聴きながら本を読んだ。この店は、学科は異なるが同学年生のJ君に連れて来てもらった。そして、二人で、よく、この店で一日過ごした。疲れてくると、体を動かす目的で近くのパチンコ店に出かけ、騒音に心身を曝した。
大学生が遊びふけていても留年しないように、凡夫も落第することなく進級した。しかし、J君は、進級することなく高専を辞めた。J君だけでなく、凡夫の廻りでは多くの学生が退学した。付き合っていた友、そして知り合いの上級生が、ぽつりぽつり、と姿を消していった。そして、いつの間にか残っているのは、凡夫一人になっていた。J君は、退学後出身地の鳥取に帰らず、付き合っていた年上の女性と同棲した。J君との付き合いは、凡夫が高専を退学するまで続いた。
面談時に、つい、口に出たささやきは、固まりつつある決意から漏れ出た一抹の泡のようなものかもしれない。その泡は、他の無数の泡と同様に、本来、自然消滅する筈のものであった。しかし、その泡だけが、たまたま、捕捉された。その結果、凡夫の進路は、大きく変わって行くことになった。