鉢伏山とフキノトウ
2019 03 25 (art19-0118)
東郷池の池畔は公園になっています。公園の端に “はわい温泉” があります。2月の中旬頃から公園で学生風の人をよく見かけるようになりました。朝方、そのような人が十数名、“山本土産店” そばの足湯施設前に集まり、到着した連絡バスに乗り込みます。福庭の中央自動車学校へ出かけるようです。“はわい温泉” には合宿免許を主催している自動車学校の寮(睦荘)があります。
“はわい温泉” から、東郷池の対岸に目を向けると、松崎の集落が見えます。視線を上方に移すと、山々の重なりが見えます。その中のひと際大きな山の頂上にテレビ塔が見えます。鉢伏山です。標高514メートル。高くはないのですが、池の周辺のどこからでも見えます。逆に言えば、鉢伏山の山頂から東郷池と羽合平野が一望できます。子供の頃、何度か登りました。歩いて登ったり、バイクで登ったりです。バイクは高専時に帰省に使っていた中古車です。当時は、ヘルメット着用義務はなく、風を切って爽快に走行することができました。
久しぶりに、鉢伏山に登頂しました。と言っても、車での登頂ですから、楽なものです。松崎から川上青谷線(県道51号線)を走行し、途中、左に折れて、鉢伏山への道(県道260号線)に入りました。そこから約2km、くねくね道を走り、山頂に着きました。山頂には駐車場や展望台(トイレ付)が整備され、昔と随分様子が変わっていましたが、山頂からの眺めは、昔通り、すばらしいものでした。東郷池と羽合平野、そして、海岸と風力発電用のプロペラが見渡せました。
山頂には、2本の大きな電波塔が立っています。1959年3月から2011年7月まで、地上アナログ放送の親局として電波を発信していました。NHKテレビジョンの総合と教育、そして、日本海テレビジョンです。デジタル放送の台頭にともない、アナログ放送の電波塔は用済みとなりました。今では、FMラジオ放送の親局 (NHK) と中継局(エフエム山陰と山陰放送)用のアンテナが稼働しています。
鉢伏山のテレビ塔が機能を開始した1959年は、凡夫が小学校に入る1年前です。この年の7月まで、“月光仮面” が放送されていたようですが、視聴した記憶がありません。テレビ受像機を所有する家が近所に無かったのだと思います。しかし、翌年の4月から始まった “怪傑ハリマオ”(1960/4/5 – 1961/6/27)と8月からの “ナショナルキッド”(1960/8/4 – 1961/4/27)、そして、“ナショナルキッド” の後番組として放送された “少年ケニア”(1961/5/4 – 1962/2/8)は、はっきりと記憶しています。その頃、凡夫の家にはテレビ受像機がありませんでしたので、近所のT宅で観ました。夕方になると大勢の子供が、テレビ受像機の前に集まり、画面に見入っていました。このあたりの場景は、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の一シーンと同じです。凡夫が小学校の1、2年生の時です。3年生の時、アニメ “エイトマン”(1963/11/7 – 1964/12/31)が始まり、これもよく観ました。いずれの番組もモノクロです。これらの番組は記憶にあるのですが、それ以降の番組はあまり記憶に残っていません。ただ、“隠密剣士”(1962/10/7 – 1965/3/28)の脇役の “伊賀忍者の霧の遁兵衛” は覚えています。おそらく、他の遊びで忙しくテレビを観ることがなくなったのだと思います。ちなみに、凡夫の家にテレビ受像機が入ったのは、凡夫が中学生になってからだったと記憶しています。近所では、最後の方でした。
電波塔への小道脇に、フキノトウが出ていました。フキノトウは蕗の薹で、“薹” は、ダイコンのとう立ち (art19-0117) の “とう/薹” と同様に、花芽をつける茎のことです。食べてみることにし、あまり気の進まない家内を促し、芽をいくつか摘みました。家内は、フキノトウの天ぷらをつくり、夕食卓にのせてくれました。一つ口に入れました。いけませんこれは。なんとかかみ砕き、どうにか呑み込みました。独特な苦味があり、好きな人は好きなのだろうと思いますが、凡夫には、おいしさとは無縁の食べ物、否、食べ物の範疇にも入り難いものでした。口に入れたのは雌花です。家内も、一つ食べましたが、二つ目に箸を伸ばすことはありませんでした。
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