今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

釜ヶ崎

2020 01 06 (art20-0200)
ちょとした思い付きで、ぶらっと出かけた話の2つ目です。

誰に言うことなく、10日間程大坂西成区のドヤ街、通称 “釜ヶ崎”、で過ごしました。何か特別な目的があった訳ではなく、何かの本でドヤ街のことを知り、どんなところか見てみようといった軽い好奇心からです。その日暮らしの労働者の溜まり場だからといって、その人達の労務を体験する意図はなく、それ相応の金銭を所持していました。米子高専2年生の時です。

米子駅から20:46発の京都行普通列車に乗りました。この列車は、当時(昭和40年代)、下関駅と京都駅を結び、山陰本線の全線(下関市の幡生駅―京都駅)を走行していました。京都駅への到着は早朝の 5:24です。京都へぶらっと出かけるときによく利用しました。しかも、運賃が安く、加えて、夜行列車でもあり、走行中は寝ていればよいのですから。ただ、狭い座席に横になるのは窮屈なので、夜も更けて、乗客が少なくなる頃合いを見て、座席を外して(持ち上げると簡単に取れました)床に並べ、その上に横になります。即席の座席ベッドです。京都に近づき、乗客が乗りこんで来る前に、座席ベッドを元の位置に戻すことにしていました。しかし、時には、行商風の女性に肩をたたかれて起こされたことも、目覚めると乗客に囲まれていることもありました。迷惑をかけていたと思いますが、苦言や注意を受けた記憶はありません。もっとも、何人かは、通路の床に新聞紙を敷いて、あるいは、寝袋に入って転がり、凡夫同様に横になって寝ていましたから、凡夫はその中の一人にすぎませんでした。当日の京都行夜行列車の中でどのような恰好で寝ていたのか覚えていませんが、恐らく、いつも通りと思われます。京都駅到着後、大阪へ向かい環状線に乗り換えました。そして、新今宮駅で降りました。

初めての地では、大まかな地図を頭に入れて、あちこち歩くことにしています。そうすることで、身体がその地に馴染むのか、緊張感がとれます。(実はこれは、何かの本で読んだ、旅好きの人が推奨する行動を真似たものです)
新今宮駅から南へ足を運び、ブラブラ歩きました。どこをどう歩いたかは覚えていません。路上で見かけた人は、どこにでもいそうな人であり、とてもその日暮らしの人とは見えませんでした。ただ、多くの人が、うつむき加減に歩いていました。一方、公園内やその周辺では浮浪者風の人も見かけました。

夕方、寝る場所を探して、いくつかのドヤ(簡易宿泊所)をあたりました。最初の宿は、個室ではなく、数人が同室に泊まる(雑魚寝に近い)相部屋型でした。料金は 100 円以下だったのですが、他をあたることにしました。次の宿は、軽量鉄骨3階建てです。外観は大きく見えましたが、入ってみると、天井がやけに低いと感じました。部屋は個室で、2畳に少しの板畳があり、その上に小さな窓が付いていました。家賃は一泊300円。3番目の宿も、軽量鉄骨3階建てだったのですが、廊下と部屋の汚れがひどく、結局2番目の宿に決めました。隣室との仕切り壁の造りが軟弱で、ちょっと気にはなりましたが。備え付きの布団はせんべい状で、しかも、幅が狭く、横たわると両腕が外に出てしまいました。毛布は薄く粗末なものでした。

翌日は、昼前に起きて、一日中、ブラブラしたのですが、前日と変わったことはありませんでした。夕方になると、路上に人が多くなり、昼間と違って、人の声が耳に入るようになりました。次の朝は、早く起きて、西成職安に出かけました。そこには、人、人です。どこから湧いてきたのかと思うほどの数です。その人達は手際よく分けられて、待機していたトラックやバスに乗り込みます。建設現場へ直交するのでしょう。現場がどのようなものか、どのような作業に従事するのか、分かりませんが、一日働いて日銭を稼ぐ。まさに日雇いです。翌朝も、同じ光景をみました、そして、その翌朝も。日雇い労働者の街でした。

2番目の宿で寝泊りしていましたが、特にトラブルはありませんでした。ただ、食事には困りました。日雇い労働者が屯しているめし屋に入ることが出来ませんでした。そこは飲み処でもあり、夕方になると賑わっていました。夕食はもっぱらパンと果物とし、昼食は少し歩いて天王寺駅周辺の食堂で済ませました。

日がな一日街をブラブラしていましたが、段々興味が薄れてきましたので、頃合いをみて帰ることにしました。何か興味ある事件でもあれば滞在を延ばしたのでしょうが、特にそのような事件はありませんでした。おしなべて、ピリッとしたところのない、どんよりした街です。
京都駅 22:06 発の山陰線下りの普通列車に乗りました。

米子の下宿先に帰る前に実家に寄りました。玄関のドアを開けると、両親が出て来て、ほっとした顔をしています。はて?と思いましたが、聞いてみると、大変なことになっていることがわかり、愕然としました。誰にも言わず、ぶらっと出かけましたから、学校では無断欠席状態で、実家に問い合わせの連絡が入ったそうです。両親を含め、誰も凡夫の居所が分からず、心配していたとのことでした。
この件で、無断欠席したことの始末書を提出することになり、保護者として父が同行してくれました。父は、このとき、初めて、高専の門をくぐりました。2年後、もう一度、父は高専の門をぐぐることになります。凡夫が退学届を提出するときでした (art19-0116)。父は、この時も保護者として同行してくれました。一回目も、二回目も、父は、意見めいたことは一言も口にしませんでした。

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