留年(その1)
2020 01 23 (art20-0205)
凡夫の入った大学は、入学後2年前期までは中央区の六本松キャンパス(教養部)で教養科目を履修します。そこで必要単位数を取得した学生は、2年後期から東区の馬出と箱崎馬出の本学キャンパスへ移り、専門科目を学びます。単位数が足りない学生は留年です。凡夫が大学に入学した年 (昭和48年、1973)、入学式粉砕を叫ぶ全共闘系学生が式場に乱入しました(凡夫は、とある事情で式場にいませんでした(art19-0123)。授業開始予定日に六本松キャンパスへ出かけると、正門の立看板が目を引きました。授業料値上げ反対ストライキの決行中で、キャンパス全体に落ち着きがありませんでした。加えて、米軍のジェット機・ファントムが箱崎キャンパスの大型計算機センターに墜落した事故(昭和43、1968)があり、それに端を発して盛り上がった米軍板付基地撤去闘争が、数年後のその頃にも、学生運動の余波として残っていました。
田舎出の凡夫は、この雰囲気に魅惑され、「おお、これが大学というものか」と、妙に感動したことを覚えています。講義や授業の内容には興味を引くものはなかったのですが、キャンパスで見かける学生には興味深いものがありました。特に、そろいのヘルメットを頭にかぶり、一ヵ所に屯している学生には。米子高専ではお目にかかれない種類の学生です。何度も見ている内に素朴な疑問が湧いてきました。「何を目指しているのだろうか」と。単なる好奇心だったのですが、それを知りたくて、彼らの多くが巣窟としていた食堂横の学生会館に出入りするようになりました。その内、何人かと顔見知りになり、言葉を交わすようになりました。また、彼らと行動を共にするようになりました。デモにも誘われて借り物のヘルメットをかぶり隊列に加わりました。デモ隊は、スクラムを組んで、教養部キャンパスを出て大堀公園の淵にある福岡米国領事館までの1.5kmを行進します。反米、反帝のスローガン(米軍ファントム墜落事故から続いているのでしょう)を唱えながら。しかし、何度目かのデモを最後に止めました。最後のデモで、凡夫はスクラム隊列の左端を務めました。ピッタリ横に付いた起動隊が、ジュラルミンの盾を容赦なく、左肩から腰のあたりにがんがんぶつけてきます。これには恐怖を感じました。付き合い程度のデモ参加とこの恐怖感は釣り合いがとれません。
(もう少し書きたいことがあります。続きは次回にまわします)