工具を置き忘れる
2020 10 15 (art20-0281)
年齢にともなう心身の変化の一つとして、前回のブログ(art20-0280) で、 ゴツンと “鴨居に頭をぶつける” ようになったことを書きました。今回は、2つ目の変化を取り上げます。趣味の延長として、木工や家の修理を行っています。作業には電動工具を使います。電動工具が増えると細工の幅が広がり、また、複雑な加工が短時間で出来るようになりますから、楽しさが増します。電動工具様様です。経験の乏しい凡夫のようなにわか職人?にとっては。
それはさておき、木工や修理作業には、電動工具だけでなく、小さな工具類も使います。問題はそうした工具類です。近ごろ、工具を使った後、どこかに置き忘れて探すことが多くなりました。
状況はこんな具合です。ペンチを使って、太い針金を曲げる、その後、針金を所定の長さに切断しようと試みるが、硬くで切断できない。どうやって切断しようかと考え、切断専用の工具ワイヤーカッターがあったことに思いあたり、立ち上がって部屋の壁にかけてあるワイヤーカッターを取りに行く。ワイヤーカッターを壁から持ってきて、針金を切断する。
次の針金を手に取り曲げようとすると、手元にペンチが無い。どこに置いたのか記憶がない。思い出そうと努めても、思い出せない。しかたなく、そこらじゅうを探すはめになる。どうにかみつけたペンチは壁の近くにあったりする。ワイヤーカッターをとりに行った時に置いたようだ。あるいは、壁への途中の作業台にあったりする。どちらにしても、ペンチを置いた場所の記憶が無いのではなく、ペンチを置く行為それ自体の記憶がない。それ故、記憶をたどって置いた場所を特定しようと努めても、徒労に終わる。
かつては、置いた場所を思い出そうと務めると思い出せました。一連の行為(ペンチを持ったまま移動し、ペンチをどこかに置く)が、頭脳に逐一記録 (記録風の記憶) されていたようです。意識的な行動だけでなく、無意識的、あるいは、習慣的な行動も、記録されていたように思えます。従って、記録をたどれば、ペンチをどこに置いたかを知ることができました。あたかも、ビデオレコーダで録画した画像を、撒き戻して見るかのごとく。近ごろ、どう頑張っても思い出せないのは、頭脳に記録されていないのではなかろうかと推察します。記録されていれば、それは海馬で処理される短期記憶の類でしょうから、直後であれば呼び起こせるものと思います。
ところで、ペンチをどこかに置く行為は、ワイヤーカッターに気がとられている状況下で行われています。年をとると、脳の機能低下のため、複数のこと(ここでは、ペンチを置くこととワイヤーカッターを取りに行くこと)を同時に処理(ここでは、記録/記憶する)できなくなっているのかもしれません。
コンピューターの頭脳である CPU (中央演算処理装置) は、基本処理単位である1つのコアで同時に複数の命令系列を実行することができます。1つの命令系列の実行機能をスレッドと言いますから、1コア2スレッド、1コア4スレッドなどと表現します。2つ以上のスレッド(マルチスレッドと言う)で並行して演算します。しかしながら、初期のコンピューターの CPU は1コア1スレッドでした。1コア/マルチスレッドになったのはコアの性能が向上したおかげです。
コンピューターの頭脳である CPU になぞらえて考えると、かつては、複数の記憶スレッドが同時に稼働していた頭脳が、年をとることで性能が低下し、今や、単一のスレッドしか稼働できなくなっている。同時に行われる2つの行為(ペンチを置くこととワイヤカッターを取りに行くこと)の一つ、後者が選択されて前者は放っておかれる。そのため、前者の行為そのもは実行されているのに、その経緯は記録されていない。こう考えると、ペンチをどこに置いたか、思い出そうとしても思い出せないことになります。
真偽のほどはともかく、工具を置き忘れて、アレコレ探すことになるのは事実です。作業よりも工具を探している時間の方が長くなっては本末転倒ですから、何かの策を講じなければなりません。ここは単純に、使った工具を元の場所に返すことにしました。そうすると、面白いことに、元の場所に返した記憶が無いのに、ちゃんと返っていたりします。ちょっとした驚きです。
年をとると何かと面白い体験ができます。だから、”年とり” はやめられないのです。もっとも、やめようにもやめられないものですが。
随分、日暮れが早くなり、すっかり、秋模様です。