VBA
2020 02 27 (art20-0215)
久しぶりにVBAをあつかいました。VBA は、Visual Basic for Applicationsのことで、マイクロソフト製のMicrosoft Officeシリーズに搭載されているプログラミング言語です。マイクロソフトが提供するアプリケーションを使用することができます。
家内は友の会の帳簿係りを担当しています。形式の異なる複数の表を作成する必要があり、いちいち数値や文字を入力するのが面倒で、何とかならないかと言います。どうやっているか聞いてみると、一つの元データから一部のデータを抜き出して個別の表を作成しているとのことでした。表ごとに元データの数値や文字を、キーボードをたたいて入力するのでは、確かに、手間がかかり大変な作業になります。しかし、やっていること自体は単純な定型的な操作です。PC が得意とする分野ですから PC にやらせるに限ります。表はマイクロソフトのエクセルで作成していますから、VBA を使わない手はありません。
ちょっとしたプログラムで済むと思い、とりかかりました。しかし、随分長い間VBAを使っていませんので、言語自体の記憶が曖昧で、確認しながらプログラムを書くことになりました。完成したプログラムを前に実行ボタンを押すとエラーを表示して動きません。不適切な箇所を見つけて修正します。簡単な、短いプログラムでしたが、ことのほか時間がかかりました。次は、家内の要望を聴きながら使い易いように変更を加えていくつもりです。
久しぶりのVBAプログラミング作業でしたが、これはボケ防止に役立ちそうです。簡単なものでも、思い通り動いた時はうれしいものです。体力のいらない作業ですから老後の暇つぶしにはなります。
ところで老後は何歳からでしょうか。年齢の定義がはっきりせず、65歳か70歳からと考えている人が多いようです。このあたりの年齢は身体の不具合を感じるようになり、老いたなと意識する年齢なのでしょう。一方、経済的観点から、無収入になった後を老後とみなし、多くは、年金暮らしになる定年退職後の意味で使われています。身体的老後と経済的老後はぼぼ一致しています。
しかし、最近、”老後レス” という言葉が目につくようになりましたが、世の中そちらへ向いているのでしょうか。意味するところは、引退することなく何歳になっても働くことです。人はそんなに働きたいものでしょうか。死ぬ前の10 年間はゆっくり広がる時空に身を任せることも悪くはないと思うのですが。誰に気兼ねすることなく、やりたいことをやりたいときにやるのも、心地よいものだと思うのですが。無論、この間、何もしないのも、これまた、よいものだと思うのですが。
一方、何歳になっても、もっと言えば死ぬまで、働かなければならな人は、究極の老後レス・ライフとなります。しかし、老後レス・ライフは個人的に望んでするものだと思っていますから、老後レス・ライフをせざるをえない、あるいは、強要される状況は、どこかがおかしいと言えます。
研究生活-熊本
2020 02 24 (art20-0214)
生命研 (東京都町田市所在) の特研員(ポスドク)として研究三昧の生活を過ごしていました。そして、数ヶ月後に2年間の契約満期を控えたある日、ベテラン研究員のGさんから、熊本に一緒に行かないかと誘われました。Gさんは、長く務めていた生命研を辞めて、熊本の大学へ教授として赴任することになっていました。Gさんは、典型的な自分でやりたがる研究人間でした。この誘いの前に、秋田の大学の先生からもこちらに来ないかと誘われていましたので、どちらにしたものか迷いました。しかし、選択は簡単に決まり (art20-0213)、家内と2人で町田から熊本へ行くことになりました。
大学近くの2階建てアパートの1階の物件を借りました。3DK (3 部屋と台所・キッチン)で2人で住むには十分の広さでした。凡夫の書斎用に1部屋をあてることができました。そのうち、娘が生まれ、住人が増えましたが、まだ広さは十分でした。毎日、このアパートから歩いて大学へ通いました。
大学での最初の仕事は研究室の開設です。新たな研究室ですが、数名の卒研生(4年生で卒業研究を行う学生)の入室が告知されていました。大学からの開設準備資金を使って、分子生物学実験に必要な試薬や消耗品、そして器具を購入しました。加えて、ホワイトボードなどの教材も整えました。物品の購入にあたり業者との値引き交渉はおおいに楽しめました。分かったことは、消耗品等などは一度に大量に購入すれば驚くほど安値になるということです。研究室の片隅に机を置いて、凡夫の居場所としました。
春休みが終わり、卒研生が入室した翌日、G先生は研究室の紹介と研究内容の説明を行い、卒研生に研究テーマを与えました。テーマは、G先生が発見し長年解析してきた “線状プラスミド” に関するものです。卒研生はテーマにそって実験を行い、実験結果を出します。実験結果をもとにG先生と話し合い、次のやるべき実験を計画し、実験を遂行します。これの繰り返しです。実験は一度でなく、何度も繰り返します。また、やり直しの実験も多々あります。助手である凡夫の仕事は卒研生に実験のねらいや実際の手技を教えることです。右も左も分からない学生に教えるにはひたすら忍耐を要しました。町田の生命研では凡夫が教えられ、ここでは凡夫が教えています、ちょっと、くすぐったいような気分でした。
卒研生は、最初は、G先生の指示に従って実験を行っていますが、段々、自分で考え、自分なりの実験を行うようになります。それ自体は歓迎すべきことですが、予定にない実験は費用がかさんで、研究室の運営をまかされた者としてはたまりません。大学から支給される研究費のみで初年度は運営せざるを得ませんから、たいへんです。業者に頼み込んで後払いで納品してもらったことは何度もあります。どうしようもないときは、学生には気の毒でしたが、ちょっとごまかして実験を止めさせたこともあります。
大学院生の時、教室運営の大変さを理解したつもりでしたが、現場では、そんなことはなんの足しにもなりません。研究費の乏しい研究室を運営する大変さを味わいました。翌年になると、外部の研究費がいくらか入ってきましたから状況はよくなるはずでしたが、卒研生の数が増え、院生も加わり、研究費欠乏状態自体はそれほど緩和されませんでした。
研究室の運営には苦労しましたが、学生がいるとそれなりに楽しく過ごせました。特に最初の年の卒研生は、個性豊かな学生がそろい、おもしろおかしく過ごすことができました。翌年になり、学生の面倒をみながら自分の研究に本腰をいれたかったのですが、そうもいきませんでした。時間の方は夕食を済ませて研究室に戻ることで何とかなりますが、研究費欠乏はどうしようもありませんでした。学生の卒研実験が優先しますから、研究費はそちらに回さざるを得ず、凡夫が実験に使えるお金はほとんど残りません。また、凡夫自身のここでの研究成果が乏しく、個人的に科研費を取ることもできませんでした。それでも、2年間は、試薬をケチったり、消耗品を洗浄して再利用したりして何とかほそぼそとやっていましたが、3年目を終える頃になると転職を考えるようになりました。どこかに、試薬や消耗品に煩されることなく実験の出来る所はないのかと。結局、4年目の夏に、ちょっとした縁があり、退職し、家族3人で渡米しました。
研究生活-結婚
2020 02 20 (art20-0213)
生命研(三菱化学生命科学研究所の通称)は、民間の研究所としては珍しく、ポスト・ドクトラル制度を採用し、若手研究者のポスドクを2年間の契約社員として雇用していました。生命研ではそれらのポスドクは、正規社員の研究員や研究支援スタッフと区別して特研員(特別研究員の通称)と呼ばれていました。
博士号を取得したばかりの若手研究者にとって特研員になることのメリットは、整った研究環境(人と物)の中で研究を行うことが出来ることです。しかも、正社員には及ばないのですが、それでも生活には十分額の給料をもらえます。特研員は研究に意欲的に取り組み、結果を論文にまとめて研究業績を増やします。それらの業績をもって、退所後の就職先を探します。
一方、研究所が特研員を採用するメリットは、採用した特研員のなかから、優秀な特研員を正社員として雇用する機会が与えられることです。また、特研員は各出身大学院で使われている実験方法や解析方法を研究所へ持ち込みます。さらに、やる気に溢れ、体力旺盛な特研員の存在は所内を活性化します。
特研員の多くは独身の男性です、このことが、もう一つの研究所の新陳代謝を促すようです。研究所には、“おきて” のようなものがまことしやかに流布していました。いわく[特研員は、退所するときに、所員を連れて出ること]。確かに、この “おきて” に該当する実話を、多数、聞いていました。
“おきて” を守ろうと努めた訳ではないのですが、凡夫も、そうなりました。連れて出た女性は入室したH研究室の研究支援スタッフで、特研員の2年間、いろいろお世話になった人です。凡夫33歳(高専中退、大学留年、オーバードクターをやっていますから、3歳余計に年齢を重ねています)の時、その女性(家内)と結婚しました。
今思い返すと、生命研に勤めていた家内と結婚できたことは、とても、よかったと思います。家内はいろいろな研究者に囲まれて、研究の手伝いをしていますから、研究とはどういうもので、それに没頭する研究者がどういう性質の人間であるかを知っています。凡夫は結婚後も思う存分研究ができましたが、それは、多分に、家内のお陰です。
研究に理解がある人と結婚することは、研究を続けたい人にお勧めできる一事です。そういう意味で、“おきて” に従うことは、それなりの理があるようです。特研員制度を設けている生命研にそうした “おきて” が存続していること、納得できます。
退所前のある日、某茶店で家内に会い「秋田と熊本に大学の就職口があるけど、どちらがいいか」と尋ねたところ、家内の返答は「寒いところはいやだな」とのことでした。ここの次は、熊本へ行くことになりました。
追記:以下は後日談です。凡夫は、家内の返答(「寒いところはいやだな」)を結婚の承諾と受け取ったのですが、家内が言うには、単に、場所の好き嫌いを問われたと思い、寒い所は嫌いなので、そう答えただけとのことです。その日を境に、家内からの承諾の有無がうやむやのまま、ゴールに向かってアレヨアレヨと進みました。思うに、家内の胸のどこかには “?” 印が漂っていたことでしょう。ともあれ、ゴールインしました。
研究生活-生命研の特研員(その2)
2020 02 17 (art20-0212)
生命研で学ぶことができた分子生物学的解析は、凡夫が大学院の時に、いつかは手掛けてみたいと思っていたものです。大学院では、細胞分裂時の染色体の動きを光学顕微鏡や電子顕微鏡を用いて追いかけていましたが、手法的に観察の域をでるものではなく、染色体全体の動きは分かるのですが、内部でどのような分子がどのように変化しているか分からず、歯がゆい思いをしていました。分子レベルの解析ができる分子生物学的手法は、そのような問いへのアプローチを可能にするだろうと考えていました。生命研でその解析技術を教わり習得できたことは、その後の凡夫の研究人生にとって、強力な持ち駒の一つとなりました。
解析技術は、研究員のTさんやNさんから、また、研究助手の方々から教わりました。研究助手は、研究員の指示下で実際の実験をこなす人で、多くの経験があり何でもこなせるようにみえました。凡夫のような “ど素人” に実験手技を教えることは、たいへんな労力と忍耐がいったことでしょう。なにせ、ピペットマンを使ってμL量の溶液を扱うのは初めてでしたから。「XX君は、まったく経験がないそうだが、やっていけるのだろうか」と内々で語られていたそうです。ベテランの研究助手のHさんには、実験技術だけでなく、皆で使う試薬や器具の管理・整頓のやり方を、大声で叱責されながら叩きこまれました。生命研を退所する頃にはしっかり身についていたこれらのことは、その後の研究人生に大いに役立ちました。今思い返すと、3人の特研員の中で凡夫が一番叱られたような気がします。しょっちゅう叱られるので、これまた、教室で評判になっていたようです。
よく叱られることに関連して、ある日、Kさんから「XX君は、僕に敵意をもっているのか」と、問い詰められました。何のことか分からず、話を聞いてみますと、どうも、凡夫が廊下ですれ違いざまに挨拶をしないので、相手は無視されたと感じ、変じて反感や敵意でも持っているのではと勘ぐっていたようです。これは全くの勘違いで、凡夫は廊下をぼーと歩いていることが多く、相手が誰であるかを認知していないだけのことです。すれ違ってから、アレッ今の人は知っている人だったかなと。凡夫の説明を聞いたAさんは、腑に落ちないようでしたが、少なくとも、反感や敵意をもっていなことは納得してくれました。
廊下をボーと歩く習癖は生命研を去る頃には無くなりました。無くなった要因の一つは、研究員の N さんに、サッサと歩くように指導されたことです。Nさんは、なにをするにも速い人でした。歩く速度はもとより、話す速度、実験の速度、理解の速さ、読み書きの速度等。頭の回転が速く、さすが東大出は違うものだと妙に感心しました。そんな N さんにもいろいろ教えていただき、感謝、感謝です。
もう一つの要因は、分子生物学で用いられている解析方法の特性です。結果が出るのが早く、次から次へとすべきことが出てきます。これらをこなすには複数の実験を同時並行的に進めざるを得ません。そうすると、更にすべきことが増えます。とても忙しい世界であることが分かりました。Nさんのような処理能力の高い人向きの研究手法です。凡夫も、複数の実験を並行して行うように努めました。次から次へと作業に追われる羽目になり、そうこうするうちに歩く速度が速くなっていることに気づきました。そうなのです、分子生物学的分野の研究に従事すると、廊下をボーと歩けなくなります。ちょっと、困ったものです。
3人の特研員は、毎日、付設の食堂で夕食を済ませた後、研究室に戻り遅くまで研究室に残っていました。Mさんは卓球が上手で、食後、時々、へたな凡夫の相手をしてくれました。昼食時の食堂はいつも賑わいます。中村桂子室長の姿をよく見かけました。中村室長は、DNAの研究者として先端科学の第一線で活動されていた人で、ある意味、生命研の顔でした。当時も現在も、講演はもとより、新聞や雑誌で活躍されています。今は、JT生命誌研究館の館長です。
ときどき、休日に洗濯をしました。研究所では、白衣を着ている人はいません。このあたりも、分子生物学分野の特徴なのでしょう。皆さん私服でした。ある日、研究員から「XX君は、毎日、同じ服を着ているが、他の服を持っていないのかね」と言われました。一瞬、何のことを言っているのか分かりませんでした。服から悪臭が出ているのかと思いましたが、どうも、そうではなく、同じ服を毎日着てくることに物申しているようです。周りを観察してみると、皆さん、同じ服を次の日に着ていないことが分かりました。凡夫も、それに倣って、服を替えるように努めてはみたのですが、服自体をあまり持っていませんからどだい無理な話で、しばらくすると、同じ服を毎日着ていました。幸いなことに、2度目の指導的お言葉はありませんでした。思うに、周りに若い女性が沢山いましたから、女性の手前の親切心から出た言葉だったのでしょう。なにはともあれ、洗濯する物は、同じ服を着ていたこともあり、一週間分とはいってもそれぼどの量はありませんでした。
生命研での2年間は、分子生物学の解析手法を身につけることができて、とても有意義でした。しかし、それ以上に、凡夫のその後の人生にとっての意義は、そこで家内に出会い結婚したことです。1人ではなく2人で歩むことになりました。最初は熊本行きです。
研究生活-生命研の特研員(その1)
2020 02 13 (art20-0211)
大学院を修了し博士号をとったのですが、大学には残れそうにありませんでしたので、これからどうしたものかと思案しながら実験を続けていました。大学院での研究生活が楽しく、こういう生活が自分に合っているように感じていましたので、どこかに研究生活ができるところがないかなーと、漠然と思っていました。しかし、思うだけで、何の行動もしませんでした。そんなある日、Kさんから電話がありました。Kさんは教室の先輩で、凡夫の博士研究の相談役を務めてくれた人です。1年前に、三菱化成生命科学研究所に移り、特研員(特別研究員の通称、今でいうポスドクです)として研究をつづけていました。「XX君、こちらに来ないか」と尋ねられましたので、間髪を入れず「行きます」と返答しました。
三菱化成生命科学研究所(通称、生命研、L研)は、1971年に、生化学者の江上不二夫氏を所長に迎えて、三菱化成工業(1994年に三菱化学となる)によって、東京都町田市南大谷11に設立されました。民間企業の研究所でありながら営利を目的とせず、純学問的な生命科学分野の基礎研究に特化した研究所として極めてユニークな存在でした。構成員は、およそ、研究員70名、研究助手50名、技術員10名、間接部門20名です。これに、30名の特別研究員(ポスドク)がいました。この特別研究員は、欧米のポスト・ドクトラル研究員制度を真似たもので、特別研究員の契約満期は2年間でした。2010年に “設立当初の役割を終えた” として閉鎖されました。
1984年4月から生命研の特研員になるため、町田市へ引っ越しました。福岡の荷物の大半は郷里へ送り、必要な物だけを下宿先へ届けました。下宿先は、小田急線の玉川学園駅近くに位置し、契約満期で退所した特研員の Kさんが住んでいた部屋です。Kさんは、生活雑貨をすべて残して部屋を退出してくれましたので、こまごまと調達する手間が省け大変助かりました。
送り届けた布団などの荷物の整理を終え、夕方、外出し、街並みの散策がてら周辺をブラブラしました。下宿のすぐそばに、当時、薬師丸ひろ子が在籍していた玉川大学がありました。大学のキャンパスに勝手に入りぶらぶらと歩いてみました。起伏に富み散歩コースには最適です。気を良くして次の日の夕方も出向きました。しかし、キャンパスに入ると警備員に呼び止められ、部外者は入らないようにと注意をうけました。残念でしたが、別の散歩コースを探さざるを得ません。しかし、生命研に通うようになるとその必要性はなくなりました。下宿から生命研まで約2kmの距離があり、しかも坂道でした。歩いて25分程でしたが、道程を変えたりしてぶらぶら歩きにはかなうものでした。。
凡夫が入ったH室長の研究室は、通産省推進の大型プロジェクトからの補助金で潤っていました。その年には、1名の研究員(USA留学帰りのTさん)と凡夫の他に2名の特研員(東北大院出のMさんと名大院出のFさん)が研究室に入りました。生命現象を分子レベルで説明する分子生物学が台頭していた時期でしたから、3人の特研員は、生体分子の核酸(DNA、RNA)や蛋白質を解析する手法を学ぶ機会を得ました。
(今回は、ここまで、つづきは次回へ)
自分史について
2020 02 10 (art20-0210)
読書は、今や、TV視聴と同じ娯楽の一つとなりました。家内が倉吉市の図書館を利用しているので、凡夫も何冊か頼みます。借りる本は、気楽に読める小説類が多いのですが、ちょっと毛並みの異なる本がありました。三田誠広著の「超自分史のすすめ」です。凡夫の最近のブログは、力作業(木工工作や畑仕事)を控えていることもあり、自分の過去を話題にすることが多くなりました。ある意味、自分史の断片を書いているようなものです。参考になりそうでしたので、読んでみました。著者の三田誠広って、あの「僕って何」で芥川賞 (1977年) をとった作家です。十数年前に、宗教小説、「空海」や「日蓮」を読みましたが、こんな種類の本まで書いているとは知りませんでした。
タイトルの超自分史の “超” の意味するところは “本物” だそうです。従って、超自分史は本物の自分史のことのようです。本物の自分史があるということは、偽物の自分史があるということになりますが、その区分はいかに? 本物と偽物、昨今は、本物に見せかけた偽物が横行していますから、見分けることは容易ではありません。著者は軽く “本物の自分史” と言っていますが、その意図は、本物の自分史を書きましょうとの提言です。
読者にとって、他人の自分史に記述されている内容が事実かどうかはわかりません。衆人の知るような事件でない限り、検証しようがありません。ましてや、個々の出来事に即して内に宿る感情やら想念などは、本人以外知る由もありません。とすれは、記述内容の真偽をもって、本物と偽物を区分することはできません。
そうであるならば、真偽の区分より、常識的に考えて、自分史を最後まで読めるものと、読めないものに区分すればすむことだと、凡夫は考えます。事実から乖離し、過剰に装飾された自分史は、とても読めたものではありません。自慢話が延々と続くと、常識のある読者は辟易して読むことを止めます。
高専の3年生の材料力学の授業だったと記憶しています。講師から、幾度となく、自慢話を聞かされました。自身の自慢話ならまだしも、息子の話です。息子がいかに優秀であるかという自慢話です。某大学に入り大学院に進学し、大手の○○に入社している云々です。息子の幼少での神童ぶり?から始まり、中学、高校での優等生ぶり?、そして、○○での活躍ぶり?に及びます。授業の終わり近くになると始まる自慢話、うんざりでした。
辞書をひくと、自分史は、“自分が生きてきた歴史(生涯あるいは半生の出来事)を文章化したもの” と説明されています。三田誠広の本は、人生の出来事を文章化することを手助けするノウハウものです。入学、就職、結婚、転勤、退職など、人生の節目節目に起こったことや感じたことを引き出す手助けをしている本です。要所要所に短い自身の体験談を挿入して、幼年期、少年期や青年期にどのように肉親と関わっていたのか、 壮年期や中年期にどのように家族と接していたのかを思い出すように仕向けています。
自分史の第一の読者は自分であると凡夫は考えています。自分以外の読者を意識することなく、ただ、自分が読む為に書くのです。書きたいように書けばよいのですが、最後まで自分に読んでもらえるように、出来るだけ正確に思い出し、思い出した事柄をそのまま書くことです。しかし、真っ裸では風邪をひきますから、風邪をひかない程度の衣服を着せてあげます。
完成した一冊の本を読むことで、自分の半生ではあるのですが、あたかも、別人の人生をたどっているかのような感覚におちいれば良しとします。一人の人間の生きざまが浮かび上がればよいのです。
我々は、映画やTVのドラマやドキュメンタリーを観たり、本や新聞を読んだりすることで、世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな生き方があることを知ります。全くの他人ではあるけれども、彼らの生き方に心を動かされたりします。また、同時代に生きていた自分の過去に思いを馳せることもあります。そうすることによって、我々は、自分の感性を磨き、想像力を養っています、そして、多くの人や事象に共感し、情緒豊かな日々を送ることができます。ここに於いて、自分の為に書いた自分史が、家族や知人だけでなく、他人の目に触れることに意味があるのでは、と凡夫は考えています。
外出と畑のダイコン
2020 02 06 (art20-0209)
肺血栓塞栓症で緊急入院、退院後自宅で療養し肺機能の回復を待っています。しかし、一度、肺動脈に詰まった血栓はそう簡単にとれてくれないようで、検査値に目立った変化はありません。ただ、体はこの状態に慣れていくようで、身の回りのことだけでなく、外出も出来るようになりました。もっとも、以前のようにすたすた歩くことは出来ません。ゆっくりと、そろりそろりと歩いています。その姿は実年齢より10歳ほど年取った老人のようだと、家内は言っています。
久しぶりに、畑を見回りました。
ダイコンが大きく育っています。ダイコンの畝は歯抜けのような状態です。これは、家内が収穫した跡です。連日のようにダイコンが食卓に上がります。とても柔らかく、口の中でとろけます。まだまだ沢山植わっていますから、今しばらく、自家製ダイコンを味わうことができそうです。収穫が遅れると、ダイコンにす(鬆)が入ると言われていますが、いまのところ、それはありません。
すの入ったダイコンを輪切りにすると、内部が白っぽい “もやもや”、あるいは、“すかすか” のスポンジ状になっています。もっとも、すが入っているかどうかは、切ってみなければ分かりませんから、すの入ったダイコンを選んで切ることはできないでしょうが。
すが入る原因は、根部の水分不足です。葉をつけたダイコンを放置しておくと、根部の水分が吸い上げられ、根部の水分が不足するため内部がスポンジ状になります。ダイコンは、根が肥大した後でも、葉部は成長します。葉の成長に必要な水分や養分は根部から供給されます。高温が続くと、成長が促進され、すが入りやすくなると言われています。
根が肥大し食べ頃になったダイコンも、放っておくと成長をつづけ、水分も養分も、従って、旨みも失われてしまいます。これを防ぐためには、葉を切り取って、ダイコンの成長を止めることです。畑に植わっているダイコンだけでなく、収穫したダイコンも同じことが起こりますから収穫後葉を落とします。とろけるように柔らかく育ったダイコンは、そのまま食べたいものです。
家内と散歩に出かけた折、下(しも)の叔父さん叔母さん宅まで足をのばしました。毎年、正月に家族で挨拶に行くのですが、今年凡夫は同行できませんでしたから、今回がその代わりです。91歳と89歳の2人とも元気そうで一人で歩いていました。父母の兄弟姉妹総勢10人のうち、生きているのは母方の兄弟姉妹の3人です。正月に訪ねた家内が、叔母さんの顔に大きな青あざができていたと告げました。家の前を流れる小川に掛かっている石橋の上で、体操をしていて足をふみ違えて小川に落ちたとのことでした。今回、あざは小さくなり、ほとんど目立ちませんでした。歳が歳ですから、大事にならずあざ程度の怪我で済んで、よかったよかったと家内と話しました。
研究ー大学院
2020 02 03 (art20-0208)
大学院へ進学する年に、所属していた教室の教授が交代しました。定年退職した前任教授の後に、助教授が教授になり後任教授になりました。凡夫は、卒業研究は前任の先生に、博士研究は後任の先生に面倒をみて頂きました。2人の先生は好対照でした。
前任の先生から、“研究者にも本物と偽物があること”、そして、“研究はまだ分かっていないことを解明する行為であるが、研究者には、研究そのものを求める人と、研究によって得られる称賛や名誉・地位を求める人がいること”を教えられました。ストローで牛乳パックから牛乳をチューチューと吸いながら、「研究そのものが好きな人は、いつまでも、自分の手を動かして研究をやりたがるなー」と、少し自嘲気味に語っていました。先生は顕微鏡の覗き過ぎで潰瘍を患っていました。「牛乳を飲んでいると、痛みが和らぐのでね」とも言っていました。先生は、定年間際まで、牛乳パックを手元に置いて、顕微鏡を覗いていました。退職後は短大に籍を置いて一人で出来る範囲の研究を続けていました。
後任の先生は凡夫の博士研究の担当教授です。ただ、研究内容と方針に関しては、先生と相談することなく進めていました。その代わり、大学院生のKさんが凡夫の研究の相談役になってくれました。先生はKさんを信頼していたこと、また、凡夫の研究内容がKさんのそれと関連していたこともあり、進捗結果を聴くだけで、指図するようなことはありませんでした。
後任の先生から教わったことは、教室の運営方法と教室員のまとめ方です。研究費をできるだけ確保し、研究環境に気を配り、教室員全員の研究がとどこりなく進むように動いていました。また、先生は、集団で行動することを重視していましたので、全員参加のイベントが頻繁に開催されました。研究も、チームを組み、皆で助け合って進めることを勧めていました。しかし、そんな中にあって、凡夫は自分の課題に一人で取り組んでいました。
年に1,2回、学会で研究成果を発表しました。学会は日本各地で開催されます。発表者の学会参加費(交通費と宿泊費を含む)は教室から支給されました。この費用は教室の研究費の一部で、その捻出は教授の “お金集め” の手腕に掛かっています。発表者全員に毎回支給されましたので、相当な手腕だったと思います。参加費が一部支給されない教室もありましたから、この支給はありがたいことでした。恐らく、前任の先生ではそうはいかなかったと思います。
学会は多数の発表と講演があります。凡夫は、興味のある発表と講演を聴いて、それ以外の時間は会場を抜け出て開催地の観光・名所めぐりを楽しんでいました。教室から参加費用を出してもらっているとは言え、初めての土地には見たいものが沢山あります。その誘惑に逆らうことはできません。時には、一日中、観光に費やすこともありました。教授から「君は、何しにきているのかな」と𠮟言を受けたこともありました。
大学院に進学し2年目(修士課程の2年生に相当する)に、学会で座長の役目が回ってきました。座長は、誰もが認める研究者が務めるものと思っていましたから、これには驚きました。凡夫は、ペイペイの未熟な院生でしたから。
当日の発表会、凡夫は座長席に座りました。発表者はそうそうたる “偉い” 先生方です。座長の役目は、各演者の発表を持ち時間内におさめること、また、発表後、聴衆から質問・意見が出てこない場合、演者に一つ二つ質問し、会場からの質問・意見の発言を促し、会場を盛り上げることです。
座長を担当する発表の2つを除き会場からいくつか質問があり、凡夫から質問する必要はありませんでした。しかし、1つの発表には会場から質問・発言がなく、発表後会場がしーんとしてしまいましたから、どうしたものかと焦りました。恐らく、かなり困った顔をしていたのでしょう。「それでは、私の方から、いくつか質問をしましょう」と、京大のT教授が立ち上がり会場を盛り上げてくれました。これには助かりました。もう1つの発表時には、意を決して演者に質問したところ、それから質疑応答が演者の持ち時間終了まで続き、何とか座長の役目をこなしました。
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