エカキムシ
2021 7 29 (art21-0358)
ミカンの夏枝の新葉の多くが、内側/裏側に巻いていました。葉を開いてみると、葉の裏側の表皮が透けて、その内に黒っぽい筋が通っています。筋は行ったり来たりして、不規則な模様を描いています。目を凝らすと、黒い筋の先端に白っぽい棒状体が見えます。エカキムシ(絵描き虫)です。エカキムシは通称で、ミカンハモグリガの幼虫です。体形は扁平、体長は2-3mm、体色は淡黄白色で半透明です。
ハモグリガが柔らかい葉の葉肉に卵を産み付けます。その卵からふ化した幼虫は、表皮直下の葉肉、海綿状組織、を食べ進みながら糞を排泄します。幼虫が通ったあとに、排泄物が黒っぽい線(筋)となって残ります。ミカンハモグリガは、6月から10月にかけて発生し、夏芽や秋芽から伸びた新梢葉を食害します。また、幼虫の食害痕から潰瘍病の病原細菌が侵入し、潰瘍病を引き起こすこともあるそうです。
とりあえず、被害葉を開いて幼虫を指先で圧殺しました。しかし、翌日、新たな被害葉が見つかりました。幼虫を見過ごしたようです。再度、指先で圧殺しましたが、手作業で一匹づつ殺していてはきりがありませんから、殺虫剤を散布しました。効果がありました。しかし、その効果は長く続かないようで、1週間後には新たな被害葉が見つかりました。
で、どうしたものかと思案はしましたが、妙案が浮かばず、放って置くことにしました。すくなくとも、春芽から伸長した春枝に付いている葉は、被害を受けていませんから。
本『清貧の思想』
2021 7 26 (art21-0357)
中野孝次の本「清貧の思想」を読みました。1992年出版ですから、著者67歳の時の作品です。当時、凡夫は40歳前で、米国で研究を続けていました。帰国後、この本を手に入れたようですが、ちゃんと読んだ記憶がありません。この度、時間をかけて読んでみて、この本は、現下の凡夫のように、一線を退き365日気ままに暮らしている老人向けの本だと思いました。もっとも、凡夫は、気ままとは言え、家庭菜園等で忙しくしています。なお、氏は、講談社から出ている「すらすら読める徒然草」や、「すらすら読める方丈記」の著者でもあります。
本阿弥光悦、鴨長明、良寛、池大雅、与謝蕪村、吉田兼好、松尾芭蕉、西行などに関わるエピソードを紹介しながら、彼らの自由かつ枯淡な生き方をうきぼりにしています。そして、かつての日本には、単なる貧しい暮らしではなく、富を求めようとせず貧しい暮らしに身をおこうとする考えがあったと論考しています。簡素な暮らしのなかに清らかな行いを求める思想があったと。物欲に心を奪われることなく、いつも人間の大事に心を及ぼすことのできる生の在り方、「清貧の思想」があったと。
自分が死ぬことは、人間の大事なのですが、吉田兼好の「徒然草」の155段にはこう記されています。
生・老・病・死の移り来る事、また、これに過ぎたり。
四季は、なほ、定まれる序あり。死期は序を待たず。
死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。
人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。
人の命ははかないもので、人は必ず死ぬ。いつ死ぬかもわからない。では、どうしたらよいかと伺うと、同書の93段にこうあります。
されば、人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。
愚かなる人、この楽しびを忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、
この財を忘れて、危く他の財を貪るには、志満つ事なし。
生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。
人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり。
死を恐れざるにはあらず、死の近き事を忘るるなり。
もしまた、生死の相にあづからずといはば、実の理を得たりといふべし。
この歳になると、時折、自分の死を考えます。新聞の鳥取県版の片隅に、“お悔み申し上げます” の記事コーナーがあります。それは死者のリストで、住所、氏名、性別、年齢が記載されています。年齢を見ると、男性の場合、多くは、70と80代ですが、中には、60代の人もいます。リストの中に自分と同年齢の人を探している自分に気づきます。
今のところ、そろそろかなと、時折、思うだけで、今生きていることの喜びを感じたいとか、今ある生を大いに楽しもうなどとは思いません。「存命の喜び、日々に楽しまざらんや」とは無縁のようです。なんとなれば、死を恐れて憎むようなことはなさそうですから。
家庭菜園を行うようになって、死が身近になっています。虫はいたる所で死にます、また、簡単に死にます。そうした、虫の死、命の終わり、をみていると、人の死が特別なことではなく、虫の死と変わらないだろうと思えます、否、感得できます。死は、恐れるようなことではなく、ましてや憎むようなことではないと。虫の死がそうであるように、人の死も、死は死でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのですから。
話が、ちょっと、逸れたようですな。ミアネヨ。
コガネムシ類
2021 7 22 (art21-0356)
先日のブログで、セマダラコガネムシを題材にしましたので (art21-0353)、他のコガネムシ類も取り上げることにしました。
野菜畑の北側には、プルーン、ウメ、カキ、イチジク、ポポーなどの果樹を植えています。7,8月になると、コガネムシの成虫がやってきて、果樹の柔らかい葉を食害します。コガネムシは夜行性で、葉の摂食はもっぱら夜間です。日中は、葉の裏や土や藁の下などでひっそりしていますから、昼間、むしゃむしゃと葉を食べる姿を見ることはほとんどありません。食害された葉をみて、コガネムシによる被害に気付くことになります。
プルーンの上方の枝の葉が食い荒らされて、穴ぼこになっているのを見たとき、唖然としました。該当しそうな加害虫を探しても見つからず、被害状況は日に日に悪化しました。日中探しても見つかりませんから、暗くなってから探すことにして、懐中電灯を手に畑へ出かけました。ライトに照らされたプルーンの葉に、コガネムシを見つけました。以来、無力を感じながらも、夜な夜な、コガネムシ退治を行っています。
コガネムシによる葉の食害は、プルーンだけでなく、カキやポポーでも見られます。被害葉は、大きく齧られて穴ぼこになっていますから、よくわかります。
捕まえたコガネムシ類の多くは、アオドウガネです。アオドウガネは、コガネムシとよく似ていますが、コガネムシのようなピカピカした金属的な光沢がないことと、腹部に毛がありますから、容易に区別できます。一方、数は少ないですが、ドウガネコガネ(左下)やコフキコガネ(右下)もいました。
野菜畑の様子(2021年、7・19)
2021 7 19 (art21-0355)
13日に梅雨があけました。平年よりも6日早かったそうです。
畑の野菜はおおむね順調に生育しています。収穫期を迎え、示し合わせたように晴天が続き、野菜が美味しくなりました。家内と2人で、毎日バリバリ食べています。
キュウリ (収穫本数:豊作 17 夏すずみ 13 シャキット 16)
3品種各1本づつ育てています。ネットにつるを這わせていますが、日当たりと風通しをよくするため、幾本かのつるに麻紐をかけてネットから離しています。
ナス(千両 7 黒陽 9 加茂 0)
道路側に植わっていますから、西日がよく当たります。ナス品種の千両と黒陽の収穫は始まっていますが、京都加茂ナスは、体が一回り小さく、また、果実の肥大が遅く、まだ、ピンポン玉大です。
パプリカ(赤5、橙0、黄3)
真ん中の橙のパプリカは、生育初期に芯部を食べられ、一時伸長が止まっていましたが、持ち直しました。ただ、体は多少こぶりです。パプリカは、体を大きくするため早めに収穫しています。パプリカの果実はこの時期、色が付きませんから、緑色のまま収穫して食べています。
ミニトマト(千果 48 フルティカ 19 アイコ 33)
2本仕立です。ただし、千果とアイコは、脇芽を残して枝数を多目にしています。その分、混生しないように、麻紐をかけて広げています。フルティカは、普通の育て方です。
トマト(桃太郎 A8 B9 C8)
2本仕立て。7段目あたりで芯止めをおこない、直下の脇芽を残しています。これまでの経験から、高所の果実は熟さないことがわかりましたので、横に広げてみることにしました。
ピーマン(エース7、 京みどり 6、 エース 13)
ピーマンは、トマトとプルーンの木の間に植わっていますから、日当たりがよくありません。そのせいか、生育が今一です。特に、京ミドリは、大きくなりません。それでも、実を付けています。
インゲン豆(3株で 59)
日当たりがよくないのですが、インゲンはよく育ちます。今年初めて作りました。結構とれるもので、2人で食べる分量の生産はできています。
本『クララとお日さま』
2021 7 15 (art21-0354)
カズオ・イシグロの「クララとお日さま」(早川書房、2021年刊)を、土屋政雄の訳で読みました。この本は家内の紹介で、家内は新聞のどこかに載っていた記事をみたようです。ノーベル文学賞受賞第一作とか。久しぶりに、面白い本に出合いました。
AI (artificial intelligence、人工知能) 搭載の人型ロボットのクララが、AF (artificial freind、人工親友)として病弱な少女ジョジーの家で過ごすことになり、ジョジーと親密になっていきます。クララと暮らす母親にとって、クララの入手にはある意図がありました。それは、娘のジョジーが死んだ後にも、ジョジーを存続させることです。クララに課せられた任務は、ジョジーの一挙手一投足をよく観察・学習して完全に模倣できるようになることであり、ジョジ―に成り代わることです。
学習することはAIの得意技なのですが、ここで、問題になるのは、身体の動きはともかく、「心」の有り様と動きです。そうした「心」を学習できるかどうか。疑心を抱く父親ポールに対してクララは答えます。
「じゃ、ちょっとほかのことも聞こう。これはどうだ。君は人の心というものがあると思うか。もちろん、単なる心臓のことじゃないぞ。詩的な意味での『人の心』だ。そんなものがあると思うか。人間一人一人を特別な個人にしている何かがあると思うか。仮にだ、仮にあるとしたら、ジョジーを正しく学習するためには、単に行動の癖のような表面的なことだけじゃなくて、ジョジョーの奥深い内部にある何かも学ばないといけないだろう。ジョジーの心を学ぶ必要があると思わないか」
「たしかにそうです」
「とんでもなく難しいだろう。君の能力はすごいんだろうが、それでも追いつかないんじゃないか。いくら巧妙になりすましたって、他人に成り代わることはできまい。心を学ばねば、心を完全に習得しなければ、現実問題として絶対にジョジーにはなれないと思う」
「ポールさんの言う『心』は、ジョジーを学習するうえでいちばん難しい部分かもしれません」とわたしは言いました。「たくさんんの部屋がある家のようだと思います。でも、AFがその気になって、時間が与えられれば、部屋の一つ一つを調べて歩き、やがてそこを自分の家のようにできると思います」
「だが、君がそういう部屋の一つにはいったとしよう。すると、その部屋の中にまた別の部屋があったとしたら?その部屋にはいったら、そこにもさらに部屋がある。部屋の中の部屋の中の部屋・・・きりがないんじゃないのか。ジョジーの心を学習するというのは、そういうことになると思わないか。いくら時間をかけて部屋を調べ歩いても、つねに未踏査の部屋が残る・・・」
わたしはしばらく考えて、こう言いました。「もちろん、人の心は複雑でないわけがありません。でも、限度があるはずです。ポールさんが私的な意味で語っているとしても、学習することには終わりがあると思います。ジョジーの心は、たしかに部屋の中に部屋があるような不思議な家かもしれません。でも、それがジョジーを救う最善の方法であるなら、わたしは全力を尽くします。成功する可能性はかなりあると信じます」
「そうか」
[p311-313より]
部屋の中にある部屋を開けて、さらに、その部屋のなかにある部屋を開けて、さらに、その部屋のなかにある部屋をあけることを繰り返すことで、人の「心」が学習できるものであろうか。そのような学習で、ジョジーを愛する全ての人のために、ジョジーを存続させることができるのであろうか。
幸いなことに、ジョジーはある出来事をきっかけに健康を取り戻します。数年後、すっかり元気になったジョジーは大学へ行くために家を去ります。クララのAFとしての役割は終わります。
廃品置き場に捨てられたクララと久しぶりに再会した店長(かつてクララをジョジーの母親に勧めた人)との会話。
「でもクララ、『ジョジーを継続する』ってどういう意味なの?」
「店長さん、わたしは全力でジョジーを学習しました。求められれば、全力で継続していたと思います。でも、結果が満足いくものになっただろうかと問われると・・・。それは、完璧な再現などできないということより、どんなにがんぱって手を伸ばしても、つねにその先に何かが残されているだろうと思うからです。母親にリックにメラニアさんに父親・・・あの人々の心にあるジョジーへの思いのすべてには、きっと手が届かなかったでしょう。いまはそう確信しています、店長さん」
「そう。でも、クララ、実際には最高の結果になったのね?よかったわ」
「カパルディさんは、継続できないような特別なものはジョジーの中にないと考えていました。探しに探したが、そういうものは見つからなかったーーーそう母親に言いました。でも、カパルディさんは探す場所を間違ったのだと思います。特別な何かはあります。ただ、それはジョジーの中でなく、ジョジーを愛する人々の中にありました。だから、カパルディさんの思うようにはならず、わたくしの成功もなかっただろうと思います。わたくしは決定を誤らずに幸いでした」 [p431より]
未来はともかく、今は、AIの学習能力の届かないところに人の「心」を置いてくれていますから、ちょっと、安心できます。しかし、その到達不可の原因が察知されているとすれば、その到達はいつの日か成し遂げられるでしょう。
しかし、人の「心」の生長が解読されなければ、ある時点のジョジーは存続できても、本当の意味での、共に生長していく、ジョジーの継続はできないと思います。こちらは、そうそうできることではないでしょう。
セマダラコガネムシ
2021 7 12 (art21-0353)
7日の豪雨で、多くの田圃や畑が水没しました。翌日には水は引いたのですが、この水没で、畑の野菜がダメになったとの声を耳にしました。トマト、キュウリ、カボチャ、スイカなどです。幸いなことに、我が家の野菜畑は、畝間に水が溜まる程度で、畝に植わっている野菜が水没するようなことはありませんでした。今のところ、野菜に異変はありません。ただ、雨天が続いたため、採れた野菜の果実が水っぽく、薄味になっています。特に、トマトは。更に、トマトはひび割れを起こしています。梅雨が終わり日差しが戻ってくれば、光合成が盛んになり糖質が蓄積されて美味しくなるのでしょう。
さて、本題です。キュウリの葉に、小型の甲虫が止まっていました。この時期、キュウリの葉にはウリハムシ (art18-0024) がやってきて、葉を円弧状に食害します。しかし、これはハムシの仲間ではありません。
見かけた甲虫は、コガネムシの一種、セマダラコガネムシの成虫です。大きさは小指の爪程です。茶褐色の背面に黒褐色の斑紋があります。とても地味なコガネムシです。また、ウリハムシのように捕まえようと手を伸ばすとポロリと落ちることもなく、簡単に捕まえることができます。
野菜を加害するコガネムシはアオドウガネ、ドウガネブイブイ、ヒメコガネ、マメコガネ、などが知られています。コガネムシの成虫は、葉の葉肉を食べたり、花弁や花芯を食い散らします。
セマダラコガネムシは、一回り小さいコガネムシです。このコガネムシの加害はほどほどですから、ムキになって殺すこともないのですが、畑で目にすると、殺してしまいます。これは野菜を作るようになってから身についた習性です。
今年は、セマダラコガネムシをよく見かけます。庭の奥で、家内が育てているゴーヤの葉でも見かけました。
豪雨
2021 7 8 (art21-0352)
昨日(7日)は、梅雨前線が停滞しているなか、線状降水帯が鳥取県に流れ込み、ここ湯梨浜町では、朝から1時間の降水量20-50mmの雨、土砂降り雨が7時間程続きました。午後遅く雨が弱まったところで、長靴を履いて畑の様子を見てきました。
川への流入量が川の流出量を超えたようで、また、東郷池の水位が上昇したこともあり、池に注ぐ川水の行き場がなくなり、道路には、川からあふれた水が浸入しています。また、縦横に走る用水路から溢れ出た水は、周辺の田圃を水没させています。
ミカン畑とクワイ床への農道も水浸しです。水かさが見た目以上にあり、長靴の上淵から水が入ってきました。水で重くなった長靴をゴボボゴと運び、ミカン畑へ近づきました。ミカンの木が植わっている上下二段のケーキ床の下段は、完全に水没しています。ちょっと面白い光景でした。
再び、ゴボゴボと長靴を運び、田圃の反対側のクワイ床へ向かいました。クワイは、矢じり型の葉の先端部を残して、これまた、水没しています。クワイは水性植物ですから、この光景はありかなと思います。
一夜明けた今朝(8日)、田圃の水はすっかり引きました。草丈50cm程に生長した稲も、何事もなかったかのように、いつもの姿を見せています。
同様に、ミカン畑やクワイ床の水も引き、ミカンの木も、クワイも、いつもの姿に戻りました。ただ、水に浮遊した刈り草が散在しています。また、クワイの葉や茎には、無数の草屑が付着しています。
この度の豪雨は希少な光景を見せてくれました。置き土産は遠慮したかったのですが、そうもいかなかったようですな。
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