本「おどろでく」の『大字哀野』
2022 11 28 (art22-0497)
歯周炎による顎の腫れを自力で抑え込むため、この1週間、休養中との銘を打って、部屋でブラブラ過ごしました。と言っても、やっていたこと(木工作業場の改装作業)を中断しているだけのことです。気ままに、サッカー試合をTV観戦したり、音楽を聴いたり、本棚の本、あるいは、アマゾン通販で手に入れた中古本を読んだり、です。
読んだ本の一冊に、1994年7月に講談社から出版された室井光広の本「おどろでく」のなかの一編『大字哀野』があります。会津地方の郷里、大字哀野、の診療所に赴任してきたユダヤ系アメリカ人の父と中国人医師の家系の母をもつ医者、アイヤ氏、をめぐる物語です。母親がつけていた農事暦をたよりに、アイヤ氏が赴任してきた昭和48年から12年間ほどの往時を回想したもの。アイヤ氏のアイヤはニックネームで、喜怒哀楽の折々に大げさなしぐさで、アイヤ!と叫ぶところから付けられたもので、氏は見た目は全く西洋人です。
米作、養鶏、葉タバコ栽培で暮らしをたてる一家族とアイヤ氏との関わりがアレコレ回想されます、赴任歓迎会に参加した高二の妹ユリは、後に、病院看護師の見習いとなり、アイヤ氏と結婚し子をもうけて、離婚するとか、祖母が土蔵の2階で首つり自殺をするとか、腎臓がんで父が死ぬとか。
そんななかで、同じ会津地方出身の野口英世の母シカの手紙が一部引用されています。、Webで全文を調べました。シカの手紙の日付けは、1912(明治45)年1月23日。手紙を受け取った英世は、1915(大正4)年に15年ぶりに帰国し、母との再会を果たしたそうです。
おまイの。しせにわ。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかたのかんのんさまに。 さまにねん。 よこもりを。 いたしました。
べん京なぼでも。 きりかない。
いぼし。 ほわこまりをりますか。おまいか。きたならば。もしわけかてきましよ。
はるになるト。 みなほかいドに。 いてしまいます。 わたしも。 こころぼそくありまする。ドかはやくきてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにもきかせません。それをきかせるトみなのまれて。しまいます。
はやくきてくたされ。 はやくきてくたされはやくきくたされ。 はやくきてくたされ。
いしよのたのみて。 ありまする。にしさむいてわ。 おかみ。ひかしさむいてわおかみ。 しております。 きたさむいてわおかみおります。みなみたむいてわおかんておりまする。
ついたちにわしをたちをしております。 ゐ少さまに。ついたちにわおかんてもろておりまする。なにわすれても。 これわすれません。
さしんおみるト。 いただいておりまする。 はやくきてくたされ。 いつくるトおせてくたされ。
これのへんちちまちてをりまする。 ねてもねむられません。
この感動的なシカの文体が物語のなかで、効果的に使われています。
土蔵の2階で首つり自殺をした祖母は、田畑デ身体ヲ動カセナクナッタ百姓ハ死ナネバナラナイとの「情」を頑なにもつ、凛々たる誇り高き百姓であったとあります。はやく死ぬことを願望していた祖母は、野口シカが毎年夜籠りした中田の観音様にも、詣でていたようで、「はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ」と連呼し、楽に死なせてくれるという観音様の功徳を心待ちにしていた。また、祖母は、自殺の一週間前、アイヤ氏の診断を受け、終わると両手を広げて頼んだ。
いっしょのたのみて。ありまする。にしさむいてわ。おかみ。ひかしさむいてわおかみ。しております。きたさむいてわおかみおります。みなみさむいてわおかんでおりまする。おせてくたされ。楽に死ねるクスリをまちておりまする。どうか楽に死ねるクスリを。
しかし、アイヤ氏は、祖母の願いを、奇妙なユダヤカバラの祈りのような奇態なゼスチャーを放出することで拒んだ。そのゼスチャーは、東西南北の四方に次々に向いて頭を地につけて身を投げ出す、氏があみだした祈祷法である。にしむいてわおかみ。ひがしむいてわおかみ。きたむいてわおかみ。みなみむいてはおかみ、である。
歯周炎の悪化
2022 11 24 (art22-0496)
下顎の右側、犬歯のあたり、が腫れてきました。腫れ部を触ると痛みがあります。この痛みは、気味の悪い痛みで、馴染めません。口をひらくと、顎の一部が腫れて強張っているため、口が歪みます。顎の腫れは先週の土曜日の朝からです。その数日前に、下右犬歯の歯茎に違和感がありましたから、歯周炎の悪化/再発でしょう。このところ、納屋2階の木工作業場の改装を行っていて、疲れ気味でした。
歯周炎には、辺縁性歯周炎と根尖性歯周炎があるそうです。どちらも、細菌の感染・増殖によっておこる炎症ですが、細菌の感染経路に違いがあり、辺縁性歯周炎は歯と歯茎の境目から、根尖性歯周炎は根管からです。一般に歯周病と呼ばれているものは、辺縁性歯周炎です。
根尖性歯周炎の症状は、疲れたときに歯ぐきが腫れる、歯ぐきからうみが出てくる、噛むと違和感・痛みが出る、だそうです。いずれも、凡夫の症状にあてはまりますから、凡夫の歯周炎は、根尖性のようです。
根尖性歯周炎の主な原因は「虫歯」だそうです。虫歯が重症化して歯髄にまで感染が及び、そこで繁殖した細菌が根尖まで漏れ出てしまうことで生じるとあります。しかし、凡夫の下右犬歯はむし歯ではありませんから、細菌の感染経路はどうなりましょうか。犬歯の歯周ポケットが相当深いので、歯周ポケットの細菌が根もとまで到達し、そこで繁殖したかもしれません。しかし、実際そんなことが起こるのでしょうか。
顎の腫れ、そしては、口の歪みは少しずつ治まっています。今回は、自然治癒力をみてみようと、抗菌薬(抗生物質)を服用していません。木工作業場の改装作業を中断し、気ままに、音楽を聴いたり本を読んだりして、体を休めています。
医院の歯科衛生士から、歯の磨き方の指導を再三受けました。時間をかけて丁寧に歯を磨くようにしています。しかし、どんなに丁寧に歯を磨いても、凡夫の歯周炎の原因菌を根絶することはできないだろうと思います。できることは、悪化しないようにすることです。
しかし、歳とともに、体力が低下し、疲れやすくなり免疫力も低下します。そうなると、体が細菌に対抗できなくなりますから、早晩、歯周炎が酷く悪化し、歯科医の本格的な治療を受けることになるでしょう。こまったものです
ところで、肩がこっているのですが、歯周炎と関係があるのでしょうか。
本「この人の閾」の『夢のあと』
2022 11 21 (art22-0495)
保坂和志の『夢のあと』を読みました。これは、1995年に新潮社から出版された本「この人の閾」の中の一編です。
話は、6月のとある日曜日に、知り合いの女の子と東京から鎌倉へ行って、ちょっと前に知り合いになった笹井さんを訪ねて、3人で、鎌倉を見て歩き回るだけの話です。かつて笹井さんが子供の頃に遊んでいた場所が、今どうなっているかを見てみようと。
鎌倉駅の西口のキオスクで待ち合わせた3人は、そこから由比ヶ浜銀座通りを南西へ下り、突きあたりの広い道路を西へ進み、六地蔵交差点で由比ヶ浜海岸へと続く細い道に入る。途中、かつて、笹井さんがメンコとコマ遊びに興じていた江ノ電の和田塚駅に立ち寄った後、海岸の手前の公園で一休みをする。かつて、ここは広い空き地で、笠井さんは草野球をやっていたところ。
由比ヶ浜を500メートルほど西へ歩き、坂ノ下あたりで、海岸道路に上がり、北上して長谷観音へ。山門手前の駐車場を奥に進み、長谷観音の裏庭のような場所を見学する。ここは、かつての笠井さんの遊び場、今は、日本庭園の造りかけの工事現場様で雑然としている。次に、すぐ近くの光則寺への坂を上る。門の手前は笠井さんが通っていた幼稚園があったところ。かつての園の遊び場は日本庭園の造りかけの工事現場のような見てくれ、そして、園舎は取崩し前の建物風。笠井さんに「おれの見て回るところが、次々となんにもなくなっている。もう、絶句しちゃうよね」と言わせる。
1993年6月から2013年11月までの20年間、横浜市栄区に住んでいました。栄区は鎌倉市に隣接していますから、鎌倉へは幾度となく行きました。多くは大船駅に出て電車で鎌倉へ行きましたが、時には、栄プールに出て、そこから歩いて山に入り天園ハイキングコースを辿って鎌倉へ行きました。ある年の大晦日の深夜、家族全員で、懐中電灯を手に、山を越えて鎌倉天満宮へ行ったこともあります。
この作品は具体的な地名・固有名詞で語られているので、土地鑑がある読者は、臨場感を覚え、3人が見て回っている姿をリアルな情景として脳裏に浮かべることでしょう。そして、日常の、どこにでもありそうな会話が聞えてきます。すこし、理屈っぽい感はあるものの、十分楽しめます。
しかし、かつてあったものが、なにもかもなくなっている今を見て、
「夢のあとみたいだ」という感想を言いたくなって声に出すと、「なんかさあ、『夢のあとみたい』とか言っちゃうと、それで、何か言ったような気になっちゃうけどさあ。でも、本当はそういうのって、何も言ってないのとおなじことじゃない」と笠井さんに言わせる。
ここには見てきたものをうまく言うことの難しさ、があります。言葉にするには、見てきたものに対して誠実であることが求められる。言葉一つでも、なかなか大変です。
晩秋のナスと柿
2022 11 17 (art22-0494)
今年は暖かいせいでしょうか、まだ、ナスが生長しています。果実も大きくなり、収穫して味わっています。”晩秋のナス”、なかなかよいものです。
例年、11月に入ってから作った干し柿は、表面に粉がふいて白っぽくなりますが、今年は、まだ、粉吹きはみられません。これも、暖かいせいでしょうか。
我が家には、2台の大きな冷蔵庫があります。一台は台所に、もう一台は階段下の廊下にあります。これには、今年作った、袋詰めにされたドライプルーン、ビン詰にされたイチジクジャム、マーマレード、梅干しなどが収まっています。今年の干し柿もこの冷蔵庫に保存されます。季節に関係なくいつでも食べることができますから、”晩秋の干し柿”、なかなかよいものです、と言うと、語弊を招きますな。
2本の柿の木を育てています。一本は渋柿「平核無」です。6日に今年の収穫を終えました。たわわに実っていた柿の木は、今では、高所に1つの果実を付けているだけです。特に意味はないのですが、毎年、何となくそうしています。
もう一本の柿の木は「次郎」です。大型の甘柿で、果皮の赤さが際立っています。食べごろになると、先端に亀裂が入ります(果頂裂果)。果実は硬く、噛めば噛むほどに甘みが増します。収穫期が長く、今月末まで続きます。まだ、木には数十個の果実が付いていますから、今しばらくの間、味わうことができます。”晩秋の甘柿”、なかなかよいものです。
塩水浴
2022 11 14 (art22-0493)
金魚を飼っています。横浜市に住んでいたときからですから、随分長くなります。定年退職後、横浜市から京都市へ移住し、4年後に京都市から鳥取県の湯梨浜町に転居しました。住所が変わる度に、金魚をバケツにいれて、いっしょに移動しました。湯梨浜町に移って、かれこれ5年たちます。今も、3匹の金魚が同居しています。
金魚は、時々、元気がなくなります。時期的に季節の変わり目に多いようです。水温の変化が関係しているだろうと思います。ときには、体表に白いつぶつぶが現れます。大きさは0.5-1.0mmほどです。最初は、尾びれや腹びれに、そして、胸びれから鰓に、放っておくと、唇にも現れます。これは、白点病で、寄生虫の一種、ウオノセンチュウの繁殖によるものです。同じ水槽の他の金魚に感染します。
白点病の症状が現れると、0.5%の食塩水をいれた水槽に移します。塩水浴です。2日ごとに塩水を交換します。一週間ほどの塩水浴で、白いつぶつぶが消失します。
塩水浴は、白点病だけでなく、動かなくなってじっとしている時や餌を食べなくなった時も、使います。塩水浴だけで不思議と回復します。何か異変があると、とりあえず、塩水浴です。
金魚の体液の塩分濃度は、0.6%です。水槽の水より塩分濃度が高いため、浸透圧の差が生じます。そのため、水槽の水が、体内へ入ってきます。体内へ入った水は、大量の尿として排出されます。そうすることで、体内の塩濃度は一定に保たれます(浸透圧調節機能)。弱った金魚には、この浸透圧調節が負担になりますから、水槽の塩分濃度を体液の濃度に近づけることで、負担を軽減してやります。これが、塩水浴(0.5%食塩水)です。また、水槽の塩濃度を高くすると、ウオノセンチュウの増殖が抑えられると言われています。
今まで、金魚の危機を塩水浴だけで回避してきたのですが、今回は、どうでしょうか。白点病に罹った金魚の目が白く濁りました。塩水浴で、ひれの病状は消失したのですが、目の白濁は残りました。塩水浴から普通の水に移して、何度か水を換えて様子を見ています。動きが良くなってきたので、目の白濁もなくなるとよいのですが・・・。
電位治療器
2022 11 10 (art22-0492)
近所のUさんは、最近食品スーパーの裏に開設された ”からだケア空間フィットット” 会場に通って、電位治療を無料で体験しているそうです。かれこれ数十回になるとか。体の調子がよくなったので、治療をもっと続けたいと言っています。ところが、今月末に、その会場は閉鎖されると聞かされ、自宅でできる家庭用電位治療器(コスモドクター)を購入しようかしまいか迷っている様子でした。価格は200万円と言っていました。一方で、新規の体験者が増えると、閉鎖が延期されると聞かされ、人集めに奔走しているようで、凡夫にも声がかかりました。で、電位治療器なるものを知ることになった次第です。
ウィキペディアの「電位治療器」の項目に以下の解説があります。
『電位治療器は、交流電界または直流電界の中に人体を置き、または絶縁状態にある人体に対して一定の電位を与えることで治療を行う医療機器。
管理医療機器である「電位治療器」の認証基準に適合する製品に対して、薬機法の認証内容として、頭痛・肩こり・不眠症・慢性便秘の緩解が効果・効能として認められている』
頭痛・肩こり・不眠症・慢性便秘が緩解すると言うことですが、どうしてそうなるのか分かりません。どの程度緩解するものでしょうか。そもそも、電界の中で、あるいは、電位を与えると、人体に何が起こるのでしょうか。これらに関しては、残念ながら、いくら調べても出てきませんでした。
更に、ウィキペディアには、治療機器の販売方法についても解説されています。
『スーパーマーケットの催事場など、商業施設に開設されたプロモーション会場において、1ヶ月程度体験したあと「薬機法で認められていない範囲の効果」を感じた体験者が購入を希望するなど、事業者側から見ると消費者が購入を申し出てくる構図のため悪質な営業である「押し売り」は無いとしている。
プロモーション会場は来場者が多ければ期間を延長する仕組みのため、代理店企業はプロモーション会場の運営場所や期間をいっさい公表していない』
Uさんの話の内容と一致しています。この種の販売は、マニュアル化しているのでしょう。
業者は、薬機法で認められている効能(頭痛、肩こり、不眠、便秘)以外の効能を宣伝することはできませんが、電位治療を体験した人がどこそこが良くなったと個人的に発言することは法にふれません。それを聞いた人がそうか電位治療はよく効くのだなと興味をもつことになります。体験者の個人的な発言に基づく効能・効果が口コミで広がっていくことになります。Uさんは、「夜間にトイレに起きなくなった」、「手足のしびれがが治った」、と言っていました。高齢者の多くが、夜間頻尿や手足のしびれに悩まされているようですから、Uさんの話には興味をもつでしょう。会場が近いこともあり、ちょっと出かけてやってみようかな、と気持ちが動きます。体験は無料ですから。
効能・効果のエビデンスがなくても、よくなったと感じれば、その人にとってはありがたい治療機器なのです。自宅で使うために、機器を購入する人が出てくることも、肯けます。
しかし、200万円は高いと思います。どれほどの機器なのでしょうか。ネットのとある記事に、製作費は5万円前後とありますから、複雑な仕組みの機器ではないのかもしれません。もし、そうだとすると、かなり利益率が高い商品です。更に、集客はもっぱら口コミですから、この商売は、儲かるおいしいビジネスかもしれません。
さて、Uさんは、電位治療器を購入することになるのでしょうか。
山の畑のキウイ
2022 11 7 (art22-0491)
今年の春、ホームセンターでキウイの苗木を購入し、鉢に植えました。品種は、ニューエメラルドです。夏にはつるがどんどん伸びて細竹に巻き付きましたが、今は勢いがありません。今年は放っておきましたが、来年はすこし手を加えます。鉢を一回り大きくして、つるを切り取って、さっぱりさせるつもりです。
キウイは雌雄異株ですから、雌花と雄花が別の株に咲きます。実を成らせるには雌株と雄株の両方を育てる必要があります。1本の雄株があれば数本の雌株の受粉に対応できると言われていますが、少なくとも、1本の雄株が近くにあることが必要です。しかし、ニューエメラルドは両性花を付けるので、1株で結実するそうです。場所をとらないので、この品種を栽培しています。
ところで、東郷湖の北側の小山(椎山と呼ばれている)に、かつて、両親が山林を切り開いて造成した梨畑があります。二十世紀梨を栽培していました。両親が梨の栽培をやめてからかれこれ30年になります。人の手が入らなくなった畑は、今では、雑木林になっています。畑の中央にある、消毒液調整用に使われていたセメント製のタンクと、畑の随所に散在する、梨の枝を固定するために張り巡らされていた太い針金と支柱の残骸が、かつて、ここが、梨畑であったことを証しています。
昨年、この荒れ放題の畑に入ったとき、キウイの株を見かけました。地上から伸びたつるが大きな木に巻き付いていました。このキウイは、両親が梨の栽培をやめた頃に植えたのでしょう。人の手が入らなくなり、長い間、放って置かれたようで、伸び放題です。
もしかしたら、実がなっているかもしれないと思い、先の好天日、家内を誘って山の畑に入りました。キウイの果実が、ポツリポツリと高木(多くはハゼ)の上部に伸びたつるに付いていました。とても手が届く高さではないので、カギ棒を長い竹にくくり付けて引っかき落としました。
拾い集めた果実は、とても小さく、食べられるかどうかわかりません。ただ、ある意味、天然のキウイに成った果実ですから、ちょっと、興味があります。元の品種は、日本で最も広く栽培されているヘイワードだとみています。
本「すっぽん心中」
2022 11 3 (art22-0490)
朝飯前、台所で、干し柿にするため柿の皮を剥いていると、点けっぱなしのFMラジオから、「北朝鮮がミサイルを発射しました。新潟、山形、宮城の人は避難してください」と、Jアラートが流れてきました。ミサイルは太平洋へ通過した。そして、太平洋に落下した。しばらくすると、日本上空を通過しなかった、と。現在のミサイル探知能力、この程度なのですな。発射は探知できるようですが、飛行中のミサイルは探知できず、どこへ飛んでいくのか、大よそのところしかわからないのですな。これでは、一発のミサイルで地上は大騒ぎになりますな。
さて、本の話です。
TVドラマを録画して観ています。「エルピス」「ファーストペンギン」「クロサギ」「アトムの童」です。いずれも、ストーリーがはっきりしています。ふりかかる障害や妨害をはねのけて、目標に向かって邁進する。ある意味では、サクセス物語です。結末は予想できるとしても、そこへのアプローチを楽しむことができます。
しかし、なんの目標もなく、また、ふりかかる障害や妨害に対処することもなく、ただただやり過ごすことだけのドラマは楽しめるものでしょうか。窮地から抜け出そうとするでもなく、トラブルを解決しようと行動するでもない。波風に抗うこともなく、ただ波風のなかをただよう。恐らく、サクセスドラマに慣れた人が、そうしたドラマをみると、おいてきぼりをくらい、取り残された気分になるでしょう。そもそも、そうしたドラマは視聴率に縛られているTVドラマとしては成立できないでしょうな。
TVドラマには無くても、小説の世界には、何でもありですから、そうしたものもありそうです。先日読んだ本は、そうした類のものでしょうか。戌井昭人の小説「すっぽん心中」(新潮社刊)です。末尾で、えっ、これで、終わり?
漬物の配送を仕事にしている田野正平は、不忍池のベンチでクッキーを食べているとき、鳩にとり巻かれる。「すごいことになっているね」と、若い女性の百々から声を掛けられる。なんとなく親しくなる。話のはずみで、霞ケ浦へスッポンを獲りに出かけることになる。なんとか、一匹捕まえて、お金に換えようとスッポン料理店にもっていくが、相手にされない。田野は、従妹の所へ行くという百々と別れる。
出会った2人、田野と百々、どうなっていくのかなと期待しながら読み進めていくのだが、何も起こらない。出会いによって、2人の人生が変化することもなく、また、別れた後の生き方に何らかの影響をあたえるようなこともなさそうである。出会いは、2人に何の反応も起こさない。
多くの人の人生は、TVドラマに描かれるような劇的なものではなく、むしろ、この小説のように、変化を求めることもなく、波風をやり過ごすだけのものでしょうかな。
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