干し柿
2018 10 29 (art18-0072)
畑の柿木に実が沢山付きました。平核無柿(ひらたねなしがき)という品種の渋柿です。生では、渋くて食べられませんから、干し柿にしました。
渋柿を食べると渋味を感じます。これは、タンニンが舌や口腔粘膜の蛋白質を変性させることによって起こる痙攣や痛みに近い感覚であると言われています。渋味は、所謂4つの基本味、甘味、酸味、塩味、苦味を感じる仕組みと異なります。こちらは、舌の表面にある味細胞が、味物質を受容(酸味と塩味はイオンチャンネルで、甘味と苦味は受容体で)してシグナルを味神経へ伝達し脳に届けます。
タンニンが蛋白質を変性させることで渋味を感じさせるためには、水溶性が高く、唾液によく溶けることが必要です。水に溶けなくなると、渋味を感じなくなります。渋柿も熟してくると甘くなりますが、これは、タンニンがアセトアルデヒドを介して互いに結合し巨大な分子となり、水に溶けなくなるからです。渋味を感じなくなれば、もともと持っている甘味を感じるようになります。
渋柿の渋味を感じさせないようにするには、水溶性のタンニンを不溶化すればよいことになります。これを人為的に行っているのが “柿の渋抜き” です。方法は、アルコールやドライアイスで処理する、湯に浸ける等です。こうして渋を抜いた柿を “合わせ柿” と呼んでいます。一方、干し柿にして渋を抜く方法もあります。
干し柿
皮をむくことで、表面に皮膜ができ、呼吸ができなくなります。嫌気下で解糖系が働き、産生されたピルビン酸からアセトアルデヒドがつくられます。これがタンニン分子を重合させ不溶化させます。同時に、多糖が分解され、果糖、ブドウ糖、マンニトールができ、甘みが増します。更に、水分が抜けることで糖分濃度が高くなります。こうして、干し柿は甘くなります。なお、渋柿は甘柿より甘みが豊富であるので、渋柿を干し柿にした方が甘くなると言われています。
【干し柿つくり】
1.軸枝を少し残して(T字様に)枝を切り、柿を収穫する
2.皮を剥き易いようにヘタを一部取り除き、皮を剥く
3.(オプション)剥いた柿を沸騰水に10-20秒浸す
4.ビニール紐を軸枝にくくり、竹の棒に掛けて、柿を軒下に吊るす
5.ときどき、竹の棒の左右を入れ替えて、柿の両側に日差しをあてる
6.1~2週間したら、柿をもみほぐす
7.3~4週間後、好みの硬さになったら、食べる
8.残りの干し柿は、冷凍用パックにいれて冷凍保存する
干し柿つくりは、一回あたり80個の柿をつかいました。家内とせっせと皮を剥きました。4回に分けて行いましたから320個の干し柿ができることになります。もうすぐ、できあがります。楽しみです。
【家内の寄稿】
家事家計講習会(友の会主催)
2018 10 28 (art18-0071)
友の会では11月になると家事家計講習会を行います。家計簿を生活の真ん中に置いて衣食住子どものことを考える、これが友の会の考えです。家計簿はお金を貯めるためにつけるものでなく、どうお金を使ってよりよく生きるかを考えるためです。
尾道の三重塔
2018 10 25 (art18-0070)
先日、用事があり、広島へ車で出かけました。山陰自動車道を米子、松江と抜けて、宍道湖の西側(宍道JCT)から松江自動車道に入りました。この道は三次から尾道自動車道につながっています。凡夫ら(家内と同伴)は、三次から中国自動車道に入り、広島北JCTで、中国道から広島自動車道に乗り換えました。広島まで、全長260km、おおよそ3時間半のドライブです。松江自動車道は、初めて通ったのですが、走りやすい道でした。その日は、天気もよく、快適なドライブでした。
広島からの帰路、尾道と倉敷に寄りました。倉敷の観光名所は、倉敷川沿いの白壁の蔵と町屋が密集する美観地区、そしてその中にある大原美術館、近隣のアイビースクエア等、すぐに頭に浮かびます。
しかし、尾道の観光名所となると、よくわかりません。映画の撮影が行われたロケ地はいくつか思い当たりますが、”それがなに” といったところです。大学生のとき、自転車で2週間ほどかけて、山陽と四国を廻りました。そのとき、尾道をぶらついた筈ですが、記憶に残っていません。
今回、尾道を訪ねて、寺巡りを楽しむことができました。
まず、駅隣の店に入り、尾道ラーメンで腹ごしらえしました。おいしいラーメンでした。これがよかったのかもしれません。
尾道と対岸の向島に挟まれた狭い海(尾道水道)が大きな川のように東西に走っています。尾道三山が海岸線まで迫り急斜面をつくり、その急斜面にへばりつくように多くの寺が尾道水道と平行に並んで建っていました。複雑に入り組んだ迷路のような路地や坂道を歩いて、寺を巡りました。道は人一人がやっと通れるような狭さです。郵便配達人のバイク走行も難儀そうでした。
もっぱら、建物をみながらのぶらつきです。多くの建物が記憶に残りました。その中から二つ、三重塔を紹介します。
【天寧寺の三重塔】
1388年、足利義詮(室町幕府の第2代将軍)が五重塔として建立。1692年、上部の4重目と5重目を取り除き、三重塔に改修。
最初に見た時、なにか、ぼてっとした、寸詰まりな印象を受けましたが、三重塔として建立したものではないと分かり、納得できました。この塔を、下から見上げるだけでなく、上から見下ろすことができるのは、坂の町ならではの “おまけ” です。だだ、その分、屋根瓦の痛みが目に付きましたが。
なお、この寺には羅漢堂があり、寄進された526体の羅漢像が一同に会しています。それぞれ、独特の表情と姿勢を持ち、見飽きることがありませんでした。
【西国寺の三重塔】
1429年、足利義教(室町幕府の第6代将軍)による建立。
参道を登り金堂広場に近づくと、眼前の建物群の上方に、三重塔が姿をみせました。遠目からも、姿の美しい塔であることがわかります。近づくと、そのことがはっきりしました。ただ、残念なことに、土砂崩れが道を塞ぎ、直下に立つことができませんでした。崩れは、長く放置されているようにみえました。美しい三重塔だけに、惜しいことです。
なお、この寺の山門/仁王門には、草履が多数吊るされています。中には、2m長の巨大な草履もありました。
秋の例大祭(宮本神社)
2018 10 22 (art18-0069)
21日、宮本神社の例祭(ここでは、例大祭と呼んでいる)が行われました。晴天の下で、お神輿の一行がはわい温泉地区と上浅津地区を練り歩きました。
宮本神社の境内で行われた神幸式(お神輿への御魂移しと子供神輿のお祓い(画像1)後、一行は温泉地区と上浅津地区を巡る旅に出ました。
途中、2か所(温泉入口の広場とゆ~たうん横の広場)の旅所で祭祀が執り行われました。祭祀は、2名の宮司さんによる神事から始まり、浦安の舞の奉納、そして、地元代表者による玉串奉天で終わりました。
祭祀の舞台は、広場の中央にブルーテントを敷いたものです。多数の地元の人も出て来て、舞台を取り囲みました。一番の注目は、浦安の舞でした(画像2)。舞は、4人舞で、前半の扇舞、後半の鈴舞で構成されていました。8名の舞姫は、地元の小学生が担当していたこともあり、前半の舞、後半の舞が終わると、拍手が響きました。ちなみに、浦安の舞の「うら」は心を指す古語だそうで、「うらやす」で心の平安を表すことになります。
凡夫は、各班から動員された2名のうちの一人でした。法被をまとい、帯を締め、手ぬぐいを首に巻いて参列しました。役目は、お神輿を担ぐことと聞いていたのですが、現場に行ってみると、お神輿の担ぎ手は若い衆の担当らしく、凡夫の出番はありませんでした。凡夫の役目は、お神輿について歩くことと思い、そうしました。確かに、お神輿が街を練り歩く場合、お神輿を取り囲む人、後に付いていく人も必要です。
凡夫の役目、途中で、家内と交代しました。それでも、秋晴れの心地よい日差しをいっぱい浴びることができました。
落花生
2018 10 19 (art18-0068)
落花生を収穫しました。
落花生は近くのホームセンターで購入した種(千葉半立という品種)から育てたものです。
千葉半立(ちばはんだち)は、焙煎落花生向けの品種で、昭和28年に千葉県の奨励品種に採用され、千葉県産落花生を代表する二つの品種の一つです。もう一つは中手豊(なかてゆたか)という品種です。こちらも、焙煎用落花生で、昭和54年に奨励品種に指定されました。両者の区別は、薄皮の内側の色でできます。千葉半立は茶色ですが、中手豊は白色です。ちなみに、千葉半立のほうが高価格です。
4月18日に小型のポットあたり2粒の種を播きました。4月29日に発芽しました。画像上は5月1日の姿です。5月11日に、ポットから畑に定植しました。画像下は定植後10日目(6月21日)の様子です。
10月に入ると、イタチが落花生の豆をあさるようになりました。まだ勢いのある葉をつけていますが、収穫することにしました(画像下)。手前の抜けた所は、イタチが荒らしたところです。
落花生は、花が咲いた後、子房と花托の間の部分(子房柄と呼ぶ)が下方へ伸びて、地中に潜り込みます。子房柄の先端の子房が地中で肥大し莢をつくり、その中でマメが育ちます。落花生とはよく言ったものです。また、地豆とも、底豆とも、呼ばれていますが、こちらも、言い得て妙です。
さて、収穫作業です。高畝の下方に三つ目鍬をいれて土を起こし、茎をつかんで根ごと引き抜きました。落花生の莢がぶら下がっています。莢は、茎から伸びた子房柄の先端についていることがわかります(画像上、中)。
9株から収穫した落花生です。初めての栽培なので、多いのか、少ないのか、分かりませんが、収穫できました(画像下)。種まきから収穫まで6カ月です。長期栽培でしたが、ほとんど、ほったらかしでした。手間のかからない野菜です。
さっそく、家内にゆでてもらい、試食しました。味は、最高です。なんといっても自家製ですから。
後日談:
残りは、莢ごと天日干し。
水分が抜けて、からからに乾いた後、莢からピーナツを取り出しました。虫食いが多く、食べられそうな豆の総量は250グラムでした。こちらは、フライパンで炒って食べます。 (10月30日記)
ポポー
2018 10 15 (art18-0067)
国道179号は、湯梨浜町から岡山県津山市を経由して兵庫県姫路市に至る一般国道です。途中、県境の人形峠から岡山の方へ12.5km下ったあたりに、道の駅 “奥津温泉” があります。トイレ休憩後、何気なく入った道の駅の売店でポポーの実をみつけました。
ポポーは北米原産のバンレイシ科の果樹です。バンレイシ科の果樹は熱帯から亜熱帯地域に生育していますが、ポポーは温帯でも育つそうです。日本へは明治の中頃に入ったようです。
子供の頃、近所にポポーの木があり、秋口になると、その実をもらって食べました。独特の甘さが記憶に残っています。湯梨浜町に戻った時、記憶をたよりにポポーの木をさがしたのですが、見つかりませんでした。
もう一度、食べたいと思っていたポポーの実が、3個入りのパックで販売されていました。値段は150円です。
余談ですが、5,6匹のメダカ入りのプラスチックの簡易水槽が、8個ほど陳列棚に並んでいました。売り物らしく、値札には800円と表示されていました。メダカを飼っていることもあり、思わず見入ってしまいました。普通のメダカの他に、オレンジ色と白色のメダカが泳いでいました。鏡野町の “めだか市場” 産のメダカだと思われます。地元産ではありますが、こんな山の中で生き物が売られているとは、予想外でした。
持ち帰って2日目になると、ポポーの甘い匂いが強くなり、表皮も少し黒ずんできました。さっそく、食べました。ポポーの種は中央に並んでいます。種ごとスプーンですくい取って口にいれました。濃厚な甘み。記憶通りでした。感激です。家内も口にいれました。こちらは生まれて初めて。感想は「食感はバナナのようで、味はパイナップルかな」、そして「あれば、食べる」と。
目の前に種があります。よい機会ですから、種からポポーの木を育ててみようと思います。とりあえず、湿ったティシュにくるんで、冷蔵庫に入れました。低温潤湿処理です。
チャバネアオカメムシ
2018 10 12 (art18-0066)
畑の奥のほうに、柿の木が2本あります。品種は “次郎”(甘柿)と “種なし西条”(渋柿)です。カキノヘタムシによる落果を防ぐため、2回(6月2日と8月11日)農薬(パダンSG+ラビライト)を散布しました。それが、効いたのか、幼果が生理的に落果した後、際立った落果はみられません。
気温が下がり、ようやく柿の実に色が付き始めました。チャバネアオカメムシを見つけました。“次郎柿” のへたに隠れてじっとしています。ちょっと出てきてもらうため、指先を近づけると、素早く枝に移動しました(画像2)。名前のとおり、茶色の翅をもった緑色のカメムシです。
カメムシは果実を吸汁します。果実の変形や落果の原因になると言われています。今年は、カメムシが大量発生しているようで、被害防止の呼びかけが県病害虫防除所から出されました。発生しているカメムシは、チャバネアオカメムシの他、クサギカメムシ、ツヤアオカミムシの3種で、被害は11月まで続くということです。幸いなことに、凡夫のところの柿には、目をひくような被害は出ていません。
“チャバネ”で思い出すのは、大学の時の友人です。ゴキブリの研究をしていました。ゴキブリと言っても、家庭の主婦を鬼の形相に豹変させるクロゴキブリではなく、チャバネゴキブリです。茶色っぽい羽をもった小型のゴキブリで、クロゴキブリのようなテカテカ感がなく、ただの虫です。屋内外とどこにでもいるゴキブリです。当時(40年前)、新幹線の中でも見かけました。幾度となく、彼の昆虫採集に同行しました。
【家内の寄稿】
最寄会 衣服の持ち数調べと豆腐(大豆)料理の持ち寄り
2018 10 08 (art18-0065)
自分の持っている洋服の数を調べてみました。5人の中で、最も少ない人は62枚。多い人は148枚。私は115枚。
一番多いのはTシャツの類。外出にはちょっと…パジャマ代わりに?と、Tシャツ一枚でもなかなか捨てられません。スカートは真夏以外ほとんどはかなくなりました。昔買った冬のコートは重かったり、型が古かったりと着用することもなくなりました。いいものなので捨てることもできず箪笥の肥やしとなっています。
今持っている洋服に何を足したらよいか考えておしゃれを楽しみたいと思います。
大豆・豆腐料理の持ち寄りをしました。ひき肉と厚揚げの味噌あん、ひき肉と大豆、シメジの常備菜、豆腐のおやきや白和え、揚げ出し豆腐のきのこあんかけ。
大豆製品はタンパク質、カルシウム、鉄分が多いなど栄養のこと、絹、木綿、充填豆腐の違い、水切りの仕方や保存の仕方などを話し合いました。
オナモミ (瀬上池/横浜市栄区)
2018 10 05 (art18-0064)
久しぶりに横浜に行きました。かつて住んでいた横浜の住居は横浜市栄区にあります。今は、娘が住み、そこから東京の仕事場に通勤しています。栄区は横浜市の南部に位置し、鎌倉市に隣接しています。区の中央を “いたち川” が東西に流れています。
ここには、USAから帰国し、鎌倉市にある製薬会社に就職した時から定年退職するまでの20年間住んでいました。
すぐ近くに、 “いたち川” の水源の一つである瀬上沢から流れ出る小川があります。
小川沿いの道を上流にたどれば、瀬上池に到達します。池を取り囲んで深い森が
形成されています。 “瀬上市民の森” と呼ばれています。この小川沿いの道が凡夫
の散歩コースでした。自宅から約2km、往復1時間です。この小川は、蛍の生息地として、地元では有名です。
久しぶりに、瀬上池への道を歩いてみました(画像1、2)。少し暗くなり始めた時刻でもあり、多くの人の姿を見かけました。歩いている人、走っている人、いろいろです。5年ぶりですが、周辺の風景が全く変わっていませんでした。静かな森です(画像3)。隣りの宅地区の変化を思えば、これは、かなり奇怪なことです。歓迎すべき無変化です。
道脇のオナモミが実をつけていました(画像4)。今は緑色ですが、秋が深まれば、灰褐色に変わっていくのでしょう。“ひっつきむし”と呼ばれているように、表面の棘で動物の毛にまとい付き、運ばれるそうです。凡夫は、その現場をみたことがありませんので本当のところはわかりません。ただ、そばを通れば、どんな服にもよくくっつきますから、そうなのでしょう。くっつくオナモミの実の多くは、成熟して花柄と離脱し易くなった灰褐色のものです。水分が抜けて軽くなっているので、一度、からみつい実は、毛からなかなか離れないのではと、ちょっと気になります。
オナモミはどこにでも、自生しているものだと思いますが、ここではみていません。
松江城
2018 10 01 (art18-0063)
先日、雨上がりの合間に、松江城に出かけました。久しぶりの列車です。倉吉駅から松江駅まで、行はスーパーおき3号、帰りはスーパーまつかぜ10号。家内と一緒です。
何度も松江城を訪れていますが、いつも、しっくりとした感動があります。“一の門” の横を通り、本丸の天守閣を眼の前にした時も(画像1)、建物の入口で料金を払い、一歩足を踏み入れた時も、そして、急な階段を最上階まで登り、そこから松江市街を眺望した時も(画像2)。あっ、この感じと。多くの各地の城を巡った訳ではありませんが、凡夫には、今のところ、松江城がいちばん合っています。
松江城の天守閣は、4層5階地下1階の複合式で、望楼型だそうです。望楼型は入母屋造りの母屋の上に2-3階の望楼を乗せたもの。そのつもりで見ると、2階の母屋に、2階建ての小さな家屋が乗っているように見えます。
松江城は、千鳥城との別名があります。これは、千鳥破風の美しさに由来しているそうです。破風とは屋根の両端にできる三角形の空間のことです。入母屋の屋根にできる破風は入母屋破風と呼びます。また、屋根の上に別の屋根を設けた時にできる破風を、千鳥破風と呼びます。松江城天守の千鳥破風は、3層目の平屋側に出ている入母屋風の破風です(画像3)。破風は白亜漆喰塗りで、中央に華燈窓が施されています。この千鳥破風が天守の無骨さを和らげ、質素なやさしさを与えています。
松江城は、最近国宝に指定されました(2015年7月8日、官報告示)。国宝に指定されたのは、天守一棟と附けたりとして祈祷札2枚、鎮宅祈祷札4枚、鎮物3点(祈祷札1、槍1、玉石1)だそうです。祈祷札には、慶長16年正月吉祥日とあり、松江城天守が慶長16年(1611年)には完成していたことになります。この札が松江城の地階の2本の本通し柱に打ち付けられていた痕跡がみつかったことで、この2枚の祈祷札が松江城の天守閣のものであることが実証されたそうです(画像4、レプリカです)。
城を後にして、徒歩で松江駅に向かいました。途中、松江大橋を渡り寺町に出て、彩雲堂、三英堂、桂月堂で和菓子(茶菓子)を買いました。それぞれ、若草、菜種の里、薄小倉。これらはこれでおいしいのですが、京都で食べた饅頭の味が忘れられません。京都在住時に、老舗の饅頭屋を廻りつくした感があります(いつか、凡夫のおすすめ饅頭を紹介します)。この次に松江に行った時は、おいしい饅頭を探してみたいと考えています。
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