今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

本『断作戦』

2026 1 29 (art25-0826)
古山高麗雄の「断作戦」(小学館 2024年刊)を読みました。これは、1982年に文藝春秋で発刊された本の復刻です。なお、「断作戦」は「龍陵会戦」・「フーコン戦記」との三部作の一遍です。

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断作戦とは、戦争末期のビルマ北部と雲南地域において、「軍ハソノ主力ヲ芒市周辺ニ結集シ 雲南遠征軍主力ヲ龍陵方面ニ撃滅シテ怒江ノ線ニ進出シ 以テ拉孟 騰越守備隊ヲ救援スルト共ニ印支連絡路ヲ遮断ス」との方針の基に計画された作戦のことです。断とは、中国国民党への物資支援ルートの遮断の意です。計画の目論見は、孤立した守備隊の救出と遠征軍の反攻撃砕だったのですが、南ビルマから雲南への部隊の転進は時間を要し、救援は間に合わず、守備隊の拠点、拉孟 騰越、龍陵は全滅しました。

この本は、遠征軍(連合軍)の反撃がつづくなか、中国国民党への物資支援ルートの遮断拠点を守ろうとした守備隊の結末を、生還した二人の元兵士の回想でつづったものです。騰越玉砕の、龍陵玉砕の、体験録です。

「1センチの弾道の差で助かった自分が、玉砕部隊の、指折り数えられるほどの生き残りの一人として帰国し、世帯を持ち、今は孫がいる」
「戦場では、生きるも死ぬも、運としか言いようがない。助かった者には、ああいう幸運が最後までつづくのである。一度でも、それが跡切れたら、人は死ぬのである」

著者は昭和17年、仙台市榴岡の歩兵第4連隊に配属され、第二師団司令部に転属、管理部衛兵隊に所属し、ビルマなど南方戦線を転戦。ラオスにて終戦を迎えたそうです。
同時期、父は、昭和16年鳥取歩兵第40連隊に現役入隊し、満州派遣軍の傘下に入り、(満州国)三江省興山へ。松江歩兵第63連隊に配属され、鉄5447部隊に編入。衛生兵として医療、看護を行う。昭和18年、中支戦線へ、そして、20年朝鮮水原へ、そこで、終戦を迎え、復員する、との記録が残っています。

いくつかの運が重なって、ある人は戦場で死に、ある人は生き残ります。父もそうした運が重なって、生きて帰ってきたのでしょう。もし、父が戦死していたら、我が家は、どうなっていたのでしょうか。
父は、戦時中のことを話すことはありませんでした。しかし、一つだけ、誰から聞いたのか定かではありませんが、覚えていることがあります。 父は、近視で、しかも乱視でもあったため、射撃不能と言うことで、戦闘兵士ではなく、衛生兵としての任務に就かされたと。医療、看護の特別な技能があって衛生兵として徴用されたのではなく、招集後の軍事訓練で、兵士としての適性に欠けたので、衛生兵の任務を与えられたそうです。父はそのことがくやしかった、と。

体験者でなければ知りえないことがあります。どんなに想像力を働かせても届かない世界があります。その一つは、集団としての殺し合い、戦争です。こうした戦争体験記の類を読んでも、それに届くことはありません。
父の4年間の戦争体験、どんなものであったのか、知ることはできないのですが、父は生きて帰ってきたのです。そして、母と結婚して、3人の子をもうけました。その一人が凡夫です。

ノートパソコンの修理(2)

2026 1 26 (art25-0825)
ディスプレイと本体の基盤を繋ぐケーブルを交換したのですが、画面に変化はなく、依然、暗いままでした。そこで、ディスプレイパネルを交換することにしました。

ディスプレイパネルは、Dellの通販サイトから入手できます。価格は24,079円です。かなり高いので、代替品を探したところ、KSKエレクトロニクスが、Yoothi製の互換品を販売していました。価格は、11,982円です。
純正品と互換品、どちらの製品にするか、迷いました。同じ機種のノートパソコンが、中古品として3~4万円で販売されていることを考えると、部品の購入に2.4万円を出費することには抵抗があります。そこで、安価な互換品を購入することにしました。

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ディスプレイパネルの交換作業:
交換作業は、前回のノートパソコンの修理(1)(ポートケーブルの交換)とほぼ同じです。今回も、交換作業に取り掛かる前に、裏蓋をあけて、マザーボードとバッテリーの接続を断ちました。
  1. ヒンジ固定ネジを外して、表蓋を本体から離す
    ポートケーブルの交換作業のステップ(1)に同じ。
  2. 表蓋の背面のディスプレイパネルを剥がす
    ポートケーブルの交換作業のステップ(2)に同じ。
  3. 交換用パネルを取り付ける
    プルピールテープを用いて、交換用パネルを表蓋の背面に固定する。 ポートケーブルをパネルの結合端子(コネクタ)に差し込む。
  4. 逆手順で、もとに戻す。
電源ゲーブルを接続して、スイッチ ON。
Dellのマークが明るく見えました。ノートパソコンは順調に立ち上がり、通常の画面を表示しました。

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互換品のディスプレイパネル、問題なく機能しています。気になるのは耐久性ですが、こればかりは、使ってみなければ分かりません。
とりあえず、修理完了です。

ノートパソコンの修理(1)

2026 1 22 (art25-0824)
玄関前の雪かきを終えてきました。粉状のさらさらとした雪が、今も、降っています。降雪は一日中続くとの天気予報ですが、ここでは、中雪にとどまりそうです。

さて、今日の本題です。
家内が使っているノートパソコン(Dell社の Inspiron 15 3511)が故障しました。電源は入るのですが、画面が暗いままです。目をこらして、あるいは、ライトで画面を照らすと、Dellのマークがうっすら見えます。稼働しているようです。さらに、出力端子HDMIを介して、外部のモニターに繋ぐと、通常の画面が表示されます。コンピューターの動作に問題はありません。
故障の原因は、液晶ディスプレイのバックライトの不点灯のようです。

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バックライトは、液晶ディスプレイの背面から光を当てる照明装置で、これが故障すると、画面が明るくならず、暗いままです。照明装置にはエッジライト方式と直下型方式があり、ノートパソコンにはエッジライト方式が採用されているそうです。ディスプレイパネルの端に光源が取り付けられていて、光源からの光を導光板や拡散フィルムを通して面状に広げ、画面全体を照らす方式です。

古いディスプレイの光源には、蛍光管(CCFL)が使われていたので、蛍光管だけの交換ができたそうですが、最近の光源はLEDで、これは液晶パネルと一体化しているため、LEDのみの交換はできず、パネル全体の交換になるそうです。

バックライトが点かない原因は、本体のマザーボードに問題がなければ、2つ、マザーボードとディスプレイパネルをつなぐケーブルの断線、か、あるいは、ディスプレイパネル自体の故障、です。前者であれば、ケーブルの交換ですみますから、安上りですが、後者のディスプレイパネルの交換となると、高くつきます。

まず、ケーブルを交換してみました。Dell社から、内臓ディスプレイポートケーブルを購入しました。代金は1,579円。純正品で安かったのですが、届くのに1ヵ月以上かかりました。

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ディスプレイポートケーブルの交換作業:
DellのHPに、サービスマニュアルと題して、部品の交換手順の解説が載っています。これは、機種ごとに、画像付きで解説されていますから、分かりやすく、とても便利です。交換作業は、このマニュアルに従って行いました。パソコンの裏蓋を開け、バッテリーのケーブルを外してから、作業にかかりました。
  1. ヒンジ固定ネジを外して、表蓋を本体から離す
    このとき、ディスプレイポートケーブルを、本体側の結合端子(コネクタ)から、外しておく。

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  3. 表蓋の背面のディスプレイパネルを剥がす
     フレーム(ベゼル)を取り外し、パネルを蓋面にくっ付けているプルヒールテープ(両面テープの一種)の端を引っ張って、テープを剥がし、パネルを取り外す

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  5. ポートケーブルを取り外して、交換用のケーブルを取り付ける
    ケーブルは、液晶パネルと、蓋の中央上部のカメラへ配線されている。

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  7. 逆手順で、もとに戻す
電源ゲーブルを接続して、スイッチ ON。
残念ながら、画面に変化は見られず、暗いままでした。

キンカンの収穫

2026 1 19 (art25-0823)
果実の収穫、(ウメに始まり、イチジク、プルーン、ポポー、カキ、温州ミカン、キウイフルーツと続いた)、の最後はキンカンです。

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畑の隅、ブルーの暴風ネットで囲まれたキウイフルーツの隣で、キンカンの木を育てています。小さな木ですが、毎年、果実を沢山付けます。今年も、多くの果実を付けました。黄色くなった果実を収穫しました。幾分しわしわ状で張りがありません。水分が抜けているようです。
寒くなると、根からの水分の吸収が低下します。しかし、常緑の葉からの蒸散は続きますから、水分不足なります。おまけに、冬場は空気が乾燥しています。果皮のしわしわは、水分不足によるものと思われます。

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また、ミカン畑の大実キンカンの果実も収穫しました。こちらの方が、果皮がより一層しわしわ状で、中には柔らかくなっている果実もあります。
収穫したキンカンの果実は、大きめのものを選び、家内が甘露煮にします。

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LINEの活用

2026 1 15 (art25-0822)
班の初寄合の合議で、班員への連絡手段として、今年から、ポスト投函や回覧に加えて、LINEを活用することになりました。

班員の多くは高齢者ですが、今日日、スマホは必需品のようで、多くの人がスマホを持っていました。しかし、さすがに、80代の高齢者は不所持です。凡夫は、昨年末に、ガラケーからスマホに買い替えました。長い間使っていたガラケー(NTTドコモ)が今年の3月末で使えなくなるので、早めのスマホへの移行です。

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LINEグループを作り、メンバーにちょっとした連絡資料を送ってみたのですが、いとも簡単でした。よくできたアプリです。今まで使っていたe-mailと同じ感覚で送れます。ただ、LINEも画像の他に、Word、Excel、PDFなどをファイルとして送れますが、どちらかと言えば、画像、しかも、その場で写した画像、を送ることに優れたツールのようです。ちょっと写してすぐ送る、です。そのために、高スペックのカメラが付いているのでしょう。

旅先で、あるいは、散歩中、とある場面に感動し、それを誰かと共有しようと、それを写真に撮って相手に送ります。相手は、その写真を見て、おおーと、同じように感動できます。遠く離れた人同士が、その場面を同時刻に共有できるのです。今日、当たり前のことですが、凡夫のような昭和世代には、これは驚愕ものです。そこは言葉のいらない、言葉で表現することが求められない世界ですから。人類の進化に言語獲得、そして言語伝達が大きく関わっていたと思うのですが、今日の、言語からの離脱、そして視覚伝達の先に、人類は何をみることになるのでしょうか。ちょっと、気になります。

それはさておき、現在、班員の半数が、LINEグループに入っています。したがって、半数の班員にはLINEで連絡し、残りの半分には、回覧板を回して連絡しています。LINEの活用が広がり、いつの日か、班の全員にLINEだけで連絡できる日がやってくるのでしょうか。そうなれば、班長は助かります。

とんど祭り

2026 1 12 (art25-0821)
11日、区のとんど祭りに参加しました。あいにく、その日は朝から荒れ模様で、雪が舞っていました。
とんど祭りは、正月飾りを燃やして、年神様にお帰り頂く行事です。また、焚いた火でお餅やミカンを焼いて、食べることで一年の無病息災を祈ります。

例年、祭りはふれあい広場で開催されます。しかし、今年は、悪天候のため、火入れを行う前の五穀豊穣や安全祈願の神事は集会所の片隅で行われました。今年の役員(区長、神社総代、公民館長など)一同が参列し、班長や区民が取り巻くなか、神事が宮本神社の神主さんによって執り行われました。

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神事が終わると、会場を外のふれあい広場に移し、区民の見守る中、広場の中央に用意されたやぐらに火が点けられました。やぐらにはお守りや正月飾りが添えれれています。強風に煽られて、炎は一気にひろがり、数分で、燃え尽きました。そして、炎を取り囲んでいた区民に、温州ミカンが配られました。

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ところで、今回は班長として、とんど祭りの準備にかかわりましたが、ちょっと複雑な思いが残りました。ふれあい広場の中央にやぐらを組み、周囲の4隅に笹竹をたててしめ縄を張りめぐらせ、紙垂(しで)をかけます。そこが聖域であることを示します。
10時に全員(20名:班長の14名と正副区長、正副神社総代、正副公民館長の6名)が集合して準備作業を行うことになっていましたので、10時前に行くと、作業はすでに始まっていました。風が強く吹雪いていましたから、やぐら組みは午後にまわすと言うことで、作業は、4隅の笹竹立てとしめ縄張りだけでした。2,3人が作業を行い、残りは、取り巻いて立っているだけでした。作業はすぐに終わり、午後1時に再集合と言うことで、解散しました。午後1時前に行くと、すでに、やぐら組み作業は終わっていました。そこで、祭りの開始時刻(1時30分)まで、ぼーっと、待つことになりました。

本『がん消滅の罠、完全寛解の謎』

2026 1 8 (art25-0820)
このところ、ヒッキーです。空模様が安定せず、雨が降ったり止んだりで、終日居室で過ごすことが多くなりました。すこし気温が下がると、雨は霙や雪に変わります。時折の晴れ間にちょっと外出しては、畑をぐるっと見回ってきます。

岩木一麻の「がん消滅の罠、完全寛解の謎」(宝島社、2017刊)を読みました。第15回の “このミステリーがすごい” 大賞を受賞した作品です。

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なかなかの力作で、楽しく読めました。著者は現役の医者ではありませんが、国立がん研究センターで研究に従事していたようですから、がんの生物学的記述は確かなものです。また、ストーリーは、癌細胞や組織を研究対象にしていた研究者ならではの着想によるものだと思います。凡夫は製薬会社で癌研究に従事してきましたから、ある程度分かります。

ところで、厚生労働省が所管するPMDA(医薬品医療機器総合機構)の話が出てきます。製薬会社の創薬としてのゴールは、開発薬が認可されて販売されることです。薬の認可(承認)は、厚生労働大臣が行いますが、薬の審査はもっぱらPMDAが担当します。製薬会社は、基礎研究、非臨床試験、臨床試験を行い、有効性と安全性を確認した後、厚生労働省に承認申請を行いますが、それを受けて、PMDAが審査を行います。

申請された開発薬を、承認するか否かの判断は難しいことでしょう。薬は効くことが必須ですが、同時に身体に害を及ぼさないことが求められます。この有効性と安全性は、なかなか両立しません。この辺りに、創薬の難しさと大変さがあります。よく効くので、少しばかり害があってもOKをだすのか、いやいや、よく効いても害があるからNOとするのか、難しい判断です。
特に、抗癌剤などは。適応できる薬がなく、死を待つだけの癌患者は、効くのであれば、多少の害はあっても、使いたいと思うものでしょう。なかには怪しげな薬もどきでも。この辺りのことは、久坂部羊の「悪医」に書かれています。

新薬は安全であると言い切れません。薬の害は、短期間で現れるとは限りませんから。数年後、あるいは、数十年後に現れるかもしれません。申請前の試験で、何十年も安全性試験を行うことはできませんから、安全性の審査は数年間のものになります。 従って、承認/販売される新薬はとりあえず安全であるが、長期の安全性は分からないと言えます。いわば、見切り発車です。しかしながら、長期の安全性は、製造販売後調査でカバーされます。新薬が使われる現場での安全性(有効性も)が継続的に評価されていきます。問題が起これば、承認取り消し、販売中止となります。

この本、終わりに近づくと、話がドタバタしてきて、頂けませんでした。しかし、黒幕が破滅しない終わり方、悪くありません。

班の合併

2026 1 5 (art25-0819)
昨日の区の初総会で、我が3班は2班と合併することが報告されました。3班は、8軒の少人数班で、高齢かつ独居が多く、先々が不安と言うことで、隣接している2班との合併が検討されていました。そして、今年より合併班、24軒63人の班、としてスタートすることになりました。

こうした班の合併は、今後も起こるでしょう。一人暮らしの高齢者が多く、ほとんどの家は、いつか住む人がいなくなります。今でも、空き家や更地が随所にあります。 ただ、面白いことに、村落の中心部では空き家が増えていますが、集落の周辺部では新しい家が建っています。そこの住人は、中心部の家から出ていった子供達や他所から移ってきた人達です。多くは、小さな子供連れです。
集落は縮小することなく広がっています。しかし、中心部が希薄に、あるいは、ぽっかり空いたドーナツのようです。いつの日か、中心部は、住人の憩いの広場になるのでしょうか。

今年は、新2班の班長です。班長は当番制で、たまたま、今年、その順番が回ってきました。さっそく、班の初寄合を行いました。そこでの大仕事は、集金でした。班が大所帯になると、その都度、各家を回って集金するのは大変ですから、一年分を前納金として一括集金しました。班費、区費、神社関連費、募金などですが、一年分となると、結構な金額(17,000円)です。今年から、区費が2,000円上がって、10,000円になりました。

このご時世、できるだけ、出費はおさえたいものです。特に年金暮らしの人には切実です。年金額はそうそう増えていきませんから。 新年早々の集金、恐縮至極でした。

ところで、今年から、連絡手段としてLINEを導入することになりました。ほとんどの班員が、スマホを持っています。遅ればせながら、凡夫も、最近スマホデビューしました。ただ、LINEソフトの使用に不慣れですから、LINEの達人?が、班員のグループを作成しました。さっそく、グループに連絡を入れてみると、短時間で既読数が上がっていき、連絡がつぎつぎと読まれていることが分かります。便利なツールだなーと感じました。

グループの連絡手段として、LINEは広く使われているようですから、使い勝手がよいのでしょう。他の班でもLINEは活用されていきそうです。こうした連絡網があれば、連絡資料のポスト投函や、連絡板の回覧が不要になります。

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謹賀新年

2026 1 1 (art25-0818)
あけましておめでとうございます。

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今朝、8時過ぎに起床しました。みぞれが降っていたのですが、今は、あがっています。昨夜は、紅白歌合戦の前半、Vaundyまで、をみて、風呂に入りました。1時間ほど寝床で本を読みました。普段通りの就眠でしたが、起床がちょっと遅くなりました。紅白歌合戦の見疲れでしょうか。めまぐりしく人が入れ替わり、同じような歌曲とダンスがつづいて、年寄りには、見ているだけでつかれます。

ブログ、2018年から書いていますから、ずいぶん長くなります。今年も、ボケ防止と、日々の区切りのために、書き続けようと思います。

ダイコンの収穫

2025 12 29 (art25-0817)
冬はダイコンです。
畑のダイコン、収穫して食べました。先日の降雪で、ダイコンは先端の葉を残して、雪に埋まっています。雪をはらい、畝端の2本を引き抜きました。大きく育っています。

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寒い冬は、ダイコンの煮付けを食べたくなります。今年のダイコン、味もなかなかでした。2列の畝に作っていますから、これから、しばらくの間、畑のダイコンを食べることができます。

さて、2025年も、明日と明後日で終わりです。
今年は、特に大事もなく、平穏無事に過ごせたと言えそうです。この歳になると、つつがなく、が一番です。

ただ、家屋の経年劣化対応として、トイレの交換と風呂場の水道管の修理を行いました。トイレや風呂が使えないと、いかに難儀をすることになるか身をもって知りました。迅速に対応してくれた業者には感謝しかありません。

家庭菜園として、小さな畑で幾種かの果樹を育てていますが、今年は、いずれの木も、沢山の果実をつけてくれました。ウメに始まり、イチジク、プルーン、ポポー、カキ、温州ミカンと続きました。今は、キンカン(普通のキンカンと大実キンカン)の木が果実を付けています。
果樹栽培の面白さ、いくらか分かってきました。果樹の苗木を畑に植えて、栽培を始めた頃、果樹栽培人のKさんが、果樹は面白いでしょうと言っていました。その時は、何を言っているんだい、と思いましたが、今は、分かります。野菜栽培も面白いのですが、果樹栽培には野菜栽培では味わえない面白さがあります。ちなみに、Kさんも、定年退職後に、畑を手に入れて、主に桃の栽培を始めた人です。

積雪

2025 12 26 (art25-0816)
昨日の天気予報は、強い冬型の気圧配置の影響で大荒れの天気となり、中国地方でも、多い所では50cmほどの降雪があるだろうと、伝えていました。
夕方からポツリポツリと雨となり、就寝前には、外気温が下がったようで、バリバリと音をたてて雪あられが降ってきました。夜半には、強い風の音が聞こえました。
今朝、窓越しの外がやけに明るく、窓を開けると一面雪でした。雪は、水気の多い湿雪で、庭の低木に覆いかぶさっています。庭木の細枝は倒れかかりながらもなんとか重さに耐えています。外に出て、庭木に積もった雪を払うと、傾倒していた枝は立ち上がってきます。一仕事を終えて、朝食を取りました。
庭木はかなりの年数がたって、弱っていますから、こうした作業は必要です。作業するこちらも年寄りですから、これも一種の老老ケアでしょうか。この冬、何回行うことになることやら。

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家前の道路にも雪は積もります。早朝から、既に車が通ったのでしょう、深い溝ができています。除雪車の運行、どうなっているのやな。今回は湿雪なので、すぐ溶けるとみているのでしょうか。
幸いなことに、数日前に、小中生は冬休みに入っていますから、雪道を歩いて(あるいは自転車で)通学する難儀はなさそうです。今日は、外に出ずに、屋内で過ごすのでしょうか。

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本「人生しょせん運不運」

2025 12 22 (art25-0815)
古山高麗雄の「人生しょせん運不運」(草思社、2004年刊)を読みました。この作品は、幼児から戦争体験を経て戦後までの記憶をたどろうとの構想で、2001年6月から始まった雑誌の連載記事だったようですが、著者が急逝したため、それまでの記事をまとめて一冊の本にしたものです。したがって、回顧録は中途、軍に招集される前までになります。

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著者は、1920年(大正9年)8月に朝鮮新義州で生まれています。1942年の秋、21歳で入隊していますから、幼児から21歳までの回顧です。凡夫の父も、1920年生まれです。そして、1941年に入隊しています。1月生まれですから、21歳での入隊です。さらに、著者は2002年3月に、81歳で死去しています。凡夫の父は、2000年1月に亡くなっています。80歳になったばかりでした。著者と父は同じ時代に、ほぼ同じ年月生きたことになります。この本を読みながら、ついつい若かりし日の父を想像してしまいます。凡夫は、戦後生まれですから、戦前の父を見たことはないのですが。

人生はしょせん運不運だそうです。
『あの両親の子として生まれたのも私の運というものだと思います。あの旧植民地の小さな町に生まれて、あの町で育ったのも、私の運というものだと思います。私が大正9年に生まれたのも、父が宮城県の出身であることも、すべて運。後日、戦場へ送られて、なんとか生還はしたものの、何でもすぐ、運だ、星だ、しゃない、と思ってしまう人間に変わって、私はそう思うようになりました』

父母も偶然の所産であり、祖父母もそうであり、とありますから、運は偶然と読み解いてもよいかと思います。この運、あるいは偶然ゆえに、親を選ぶことができません。

運/偶然によって、著者は、医者の家に生まれます。新義州中学校を卒業。高校入試に受からず、親元を離れて、2年間東京市ヶ谷の城北予備校(1987年廃校?)に通い、1940年、三高に合格します。入学するも、講義に出ず、翌年退学。京都から東京に移り、1942年入隊。親元を離れてからずーっと、80円の仕送りがあったそうです。無為徒食の生活を送り、仕送りのほとんどを遊郭通いに使ったそうです。
裕福な家に生まれ育ったボンボンと言ったところです。金銭的には何不自由なく育ったのでしょう。親元から離れても、80円の仕送りとは、リッチです。

同じ時代に、小さな農家の家に生まれ育った父はどうしていたかと言えば、必死に働いていたと思います。祖母30歳の時、祖父が亡くなり、長男である父は、7歳で一家の大黒柱的な役割を担うことになったようです。弟3歳、妹1歳でした。父は働きづめで、上の学校に行けなかったと聞いています。さらに、19歳のとき、村落の大火事で家が焼失しました。21歳で入隊するまで、働きどおしだったと思います。

どんな家に生まれてくるのか、確かに偶然/運です。それにしても、当時、父はどう思っていたのか、聞いてみたいと思います。生前、父の労苦に思い至ることはありませんでした。逆に、お金に細かい人だなーと、思っていました。

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クワイの収穫

2025 12 18 (art25-0814)
クワイを収穫しました。
5株のうち、2株を掘り起こしました。今年のクワイは、数はあるのですが、小型でした。大きな塊茎に育っていませんでした。おそらく、葉数が多く、匍匐茎が次から次と発生しましたから、養分が分散して、塊茎を肥大させることができなかったのでしょう。 来年は、葉かきを強くし、場合によっては、株周りの匍匐茎を切って、塊茎の数を少なくしてみようと思います。

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掘り起こしたクワイ芋は、数日水に浸して、あくを抜きます。
今年も、正月用のクワイの準備ができました。

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