今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

【家内の寄稿】
最寄会(友の会)発酵食品

2019 03 30 (art19-0120)
雑誌 “婦人の友” は、よい家庭がよい社会を創るという信念のもとでつくられています。女性が、家庭や社会をよりよくするために、どのように生きたらよいかを問い続けています。雑誌は、暮らしの中のいろいろな事柄(衣・食・住・家計・子ども)を取り上げています。また、テーマごとに生活特集を組み、多くの事例を紹介し読者と共に考えています。

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3月号の特集は 「発酵生活のススメ」でした。発酵食品の特徴は、体によい、免疫力を高める、そしておいしい。
そこで発酵食品を使った一品持ち寄りをしました。

● 婦人之友3月号よりキャベツの乳酸発酵漬け…日に日に旨味がアップするとのこと
● チーズを使ってグラタン
● 鶏肉、鮭 それぞれヨーグルトと味噌の漬け焼き…ヨーグルト効果で肉や魚が柔らかい
● 肉みそ…ご飯に載せたり、野菜につけたり
● きのこの塩麹マリネ…そのままでも、パスタや和え物にも便利
● 塩麹を使った鶏ハム…しっとり、柔らか
● 白菜漬け…昔からの保存食、乳酸菌をとることができる
● 婦人之友2月号より鶏軟骨スープ

また、2019年度に向けて、衣(衣服の持ち数や手入れ)、食(食べた物調べ、旬の食材)、住(掃除、片付け、環境)、家計(予算を守る)のことなどを話し合いました。来年度も、充実した活動を目指します。

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ボケ

2019 03 28 (art19-0119)
昨年の12月 (art18-0087)、庭の片隅で咲き始めたカンボケの花が、そろそろ終わりそうです。花は薄い桃色です。寒い1月と2月、そして、少しずつ暖かくなった3月と、長い間花を付けていました。カンボケは、寒い冬に咲くボケです。

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庭には、もう一本のボケがあります。こちらのボケが、交代するかのように、開花しました。寒い1、2月にしっかりと芽を育て、暖かくなった3月に花を咲かせました。花色は深紅です。新葉の緑色とのコントラストが映えます。しばらくの間、楽しめそうです。

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鉢伏山とフキノトウ

2019 03 25 (art19-0118)
東郷池の池畔は公園になっています。公園の端に “はわい温泉” があります。2月の中旬頃から公園で学生風の人をよく見かけるようになりました。朝方、そのような人が十数名、“山本土産店” そばの足湯施設前に集まり、到着した連絡バスに乗り込みます。福庭の中央自動車学校へ出かけるようです。“はわい温泉” には合宿免許を主催している自動車学校の寮(睦荘)があります。

“はわい温泉” から、東郷池の対岸に目を向けると、松崎の集落が見えます。視線を上方に移すと、山々の重なりが見えます。その中のひと際大きな山の頂上にテレビ塔が見えます。鉢伏山です。標高514メートル。高くはないのですが、池の周辺のどこからでも見えます。逆に言えば、鉢伏山の山頂から東郷池と羽合平野が一望できます。子供の頃、何度か登りました。歩いて登ったり、バイクで登ったりです。バイクは高専時に帰省に使っていた中古車です。当時は、ヘルメット着用義務はなく、風を切って爽快に走行することができました。

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久しぶりに、鉢伏山に登頂しました。と言っても、車での登頂ですから、楽なものです。松崎から川上青谷線(県道51号線)を走行し、途中、左に折れて、鉢伏山への道(県道260号線)に入りました。そこから約2km、くねくね道を走り、山頂に着きました。山頂には駐車場や展望台(トイレ付)が整備され、昔と随分様子が変わっていましたが、山頂からの眺めは、昔通り、すばらしいものでした。東郷池と羽合平野、そして、海岸と風力発電用のプロペラが見渡せました。

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山頂には、2本の大きな電波塔が立っています。1959年3月から2011年7月まで、地上アナログ放送の親局として電波を発信していました。NHKテレビジョンの総合と教育、そして、日本海テレビジョンです。デジタル放送の台頭にともない、アナログ放送の電波塔は用済みとなりました。今では、FMラジオ放送の親局 (NHK) と中継局(エフエム山陰と山陰放送)用のアンテナが稼働しています。

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鉢伏山のテレビ塔が機能を開始した1959年は、凡夫が小学校に入る1年前です。この年の7月まで、“月光仮面” が放送されていたようですが、視聴した記憶がありません。テレビ受像機を所有する家が近所に無かったのだと思います。しかし、翌年の4月から始まった “怪傑ハリマオ”(1960/4/5 – 1961/6/27)と8月からの “ナショナルキッド”(1960/8/4 – 1961/4/27)、そして、“ナショナルキッド” の後番組として放送された “少年ケニア”(1961/5/4 – 1962/2/8)は、はっきりと記憶しています。その頃、凡夫の家にはテレビ受像機がありませんでしたので、近所のT宅で観ました。夕方になると大勢の子供が、テレビ受像機の前に集まり、画面に見入っていました。このあたりの場景は、映画『ALWAYS 三丁目の夕日』の一シーンと同じです。凡夫が小学校の1、2年生の時です。3年生の時、アニメ “エイトマン”(1963/11/7 – 1964/12/31)が始まり、これもよく観ました。いずれの番組もモノクロです。これらの番組は記憶にあるのですが、それ以降の番組はあまり記憶に残っていません。ただ、“隠密剣士”(1962/10/7 – 1965/3/28)の脇役の “伊賀忍者の霧の遁兵衛” は覚えています。おそらく、他の遊びで忙しくテレビを観ることがなくなったのだと思います。ちなみに、凡夫の家にテレビ受像機が入ったのは、凡夫が中学生になってからだったと記憶しています。近所では、最後の方でした。

電波塔への小道脇に、フキノトウが出ていました。フキノトウは蕗の薹で、“薹” は、ダイコンのとう立ち (art19-0117) の “とう/薹” と同様に、花芽をつける茎のことです。食べてみることにし、あまり気の進まない家内を促し、芽をいくつか摘みました。家内は、フキノトウの天ぷらをつくり、夕食卓にのせてくれました。一つ口に入れました。いけませんこれは。なんとかかみ砕き、どうにか呑み込みました。独特な苦味があり、好きな人は好きなのだろうと思いますが、凡夫には、おいしさとは無縁の食べ物、否、食べ物の範疇にも入り難いものでした。口に入れたのは雌花です。家内も、一つ食べましたが、二つ目に箸を伸ばすことはありませんでした。

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ダイコンのとう立ち

2019 03 21 (art19-0117)
昨年の9月12日に播いたダイコンは、12月下旬には十分に肥大しましたので、収穫して食べました(art18-0093)。収穫は今年の2月上旬まで続きました。最後の方に収穫したダイコンは、旨みがなくなっていました。旨いダイコンを食べるには適時に収穫することが肝要のようです。長く畑に放置することは、味の点から言うと、良くないことが分かりました。

これとは別に、昨年の10月19日にもダイコンの種を播きました。こちらは、落花生を収穫した(art18-0068)跡地に播いたものです。時期的に無理かなと思っていましたが、案の定、3月に入ると、ダイコンは地下部が少し肥大した状態でとう立ち/抽苔が起こりました。

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とう立ちの “とう” は、“薹” であり、これは、花をつける茎のことです。植物は成長するとき、生長点で葉芽が形成され葉が出てきます、そして、ある条件下では葉芽の形成から花芽の形成に移行します。ダイコンの場合、低温に感応して花芽が分化し、その後の温度上昇によって、花芽をつける茎が伸長すると言われています。これが、とう立ちです。ダイコンは種子が低温感応性をもつ作物として知られています。この性質故に、まだ寒さが残っている春先にダイコンの種子を播くときは、播いた種子が低温に曝されないように注意しなければならないことになります。さらに、ダイコンは、緑色植物低温感応性の性質も持っています。こちらは、生育途中の植物体が低温に遭遇すると花芽を分化することです。この性質があるので、冬の寒さに曝されたダイコンは、春には花芽をつける茎が伸長してきます。

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花芽形成が起こりとう立ちすると、ダイコンの根の肥大が止まると言われています。一度、とう立ちすると、花芽を摘んでも根の肥大を促すことば出来ないと言われています。しかし、ちょっと気になることがあります。

光に感応する部位は葉であり、そこで形成されるフロリゲンが、花芽が形成される部位(茎頂分裂組織)へ移動し、花芽形成を促進することは、よく知られています。一方、低温に感応する部位は、茎頂分裂組織そのものであると言われています。そうだとすれば、低温感応性は一過性である可能性があります。低温に感応して花芽形成が予定された部位が除去されてしまえば、更なる低温に遭遇しないかぎり、もはや新たな部位での花芽は形成されないような気がします。

ダメ元で、ちょっと、試してみることにしました。下部の葉を少し残し、花芽を含む上部をごっそり切り取りました。この状態で、しばらく、様子をみることにします。

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高専の中途退学

2019 03 18 (art19-0116)
先のブログ ”大学受験”(art19-0100) で、米子工業高等高専学校(高専)を退学したことに触れました。以下に、その経緯を記述します。

米子高専は、1964年に国立高専3期校として、機械工学科、電気工学科、工業化学科の3科で、開校されました。場所は弓ヶ浜半島の彦名町で、米子市内から少し距離 (7km) がありました。凡夫は1969年に入学しました。まだ、卒業生は出ていなかったのですが、ちょうど、5年生までの全学年生が揃っていました。

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1972年、高専の電気工学科の4年生。夏前のある日、企業実習に関する個別面談があった。世話役の先生から「xx君はどこにするの」と問われた時、凡夫は「行かないかも---」とポツリとささやいた。聞き流せるようなささやきに、先生は「えっ、どうして」と真正面から反応した。そして数分後には、凡夫が高専を辞めることは既定事項になっていた。凡夫も、先生も、なぜ、辞めるのか分からないまま。

退学の手続きだけが進行した。 父に「高専を辞めることになった」と電話で伝えた。父は「分かった」とだけ言い、理由を聞くことはなかった。聞かれても、分かるように説明することはできなかったであろう。数日後、米子に来た父と二人で、学校に出向いて、退学届けに署名し捺印した。校舎を出て、父と並んで歩きながら、暑いなーと感じたことを明瞭に覚えている。

あのささやきには、高専を辞める意志は無かった。ただ、企業実習に興味が無く、行かなくて済むなら行きたくないなといった単純な厭気が口に出たのだろうと思う。面談部屋を出ながら、どうしてこうなってしまったのだろうかと、自問していたことを記憶している。

しかし、いつかは高専を辞めるであろうことは分かっていたように思う。ただ、それがいつになるか、分からなかっただけであると。

高専に入学し、一間のアパートに住んだ。いろいろな人に出会い、いろいろなことを体験した。中学を出たばかりの田舎者の凡夫には、多くが刺激的であった。後から回顧すれば、大学に入ってから味わう世界に、中学を出たばかりの若造が入り込んだような状況であったと思う。入学早々に覚えたタバコ、パチンコ、麻雀は、逆に、大学に入ると止めた。酒も飲んでいた。こちらは、体を痛めたため、大学院の時に止めた。

住んでいたアパートは、南の繁華街と北の学校の中間に位置していた。学校へは、中古の自転車で通っていた。2年生になると、アパートの出口で一瞬躊躇し、北へ向かわず、南へ向かうことが多くなった。市内の朝日町には、ジャズ喫茶「いなだ」があった。2階に上がり、薄暗い部屋でジャズを聴きながら本を読んだ。この店は、学科は異なるが同学年生のJ君に連れて来てもらった。そして、二人で、よく、この店で一日過ごした。疲れてくると、体を動かす目的で近くのパチンコ店に出かけ、騒音に心身を曝した。

大学生が遊びふけていても留年しないように、凡夫も落第することなく進級した。しかし、J君は、進級することなく高専を辞めた。J君だけでなく、凡夫の廻りでは多くの学生が退学した。付き合っていた友、そして知り合いの上級生が、ぽつりぽつり、と姿を消していった。そして、いつの間にか残っているのは、凡夫一人になっていた。J君は、退学後出身地の鳥取に帰らず、付き合っていた年上の女性と同棲した。J君との付き合いは、凡夫が高専を退学するまで続いた。

面談時に、つい、口に出たささやきは、固まりつつある決意から漏れ出た一抹の泡のようなものかもしれない。その泡は、他の無数の泡と同様に、本来、自然消滅する筈のものであった。しかし、その泡だけが、たまたま、捕捉された。その結果、凡夫の進路は、大きく変わって行くことになった。

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【家内の寄稿】
友の会 3月例会

2019 03 14 (art19-0115)
手仕事を大事にしています。手仕事で身近な生活の中で使うものを作り、生活に生かされるようにしようと考えています。冬の手仕事を見合いました。

【ワンピース風のスモック】
 生地はコールテンで,丈を長くして冬用に。いつも同じエプロンでなく、おしゃれに家事を楽しく。
 
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【子どものおもちゃ】
 (お寿司)… お稲荷さんはご飯と油揚げが別々になり子どもが喜びそう。巻き寿司の芯に卵焼きや干ぴょうが入っています。
 (ハンバーガー)… レタス、チーズ、目玉焼きも入って美味しそう。

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【ひざ掛け】
 裏編み、表編みだけで出来る模様。ちょっと手の空いた時にできるのがよいところ。イス・ソファに置いておくと便利。

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家の向きと国土地理院の空中写真

2019 03 11 (art19-0114)
国土地理院が公開している空中写真から家の向きが分かります。空中写真は古いものから新しいものまで、無料で、閲覧することができます。(国土地理院 地図、空中写真閲覧サービス)。

晴れの日には、昼食を縁側で摂ることがあります。南向きの縁側は、日差しを受けて温かくなります。数年前に南隣の家が取り崩され、そのまま空き地となっていますから、南からの日射を遮るものがありません。この時期の太陽高度は低く、日差しは縁側続きの部屋にも入り込みます。

家の南側に縁側がありますから、今住んでいる家は南向きと言えます。家の向きの決め方は、玄関の向き、玄関の位置、居間の向き、そして主採光面の向き、等いろいろのようです。ここでは、縁側の位置としておきます。今住んでいる家は、51年前に建てられたものです。その前の家は、縁側が東側にありましたので、東向きの家と言えます。家を建て替えるとき、東向きから南向きに変えた事由は聞いていません。棟梁さんの勧めなのか、父が希望したのか、不明です。

家の向きに注目して国土地理院の古い2枚の空中写真(1961-1967の写真と1974-1978の写真)を較べてみますと、気づきがあります。古い方の写真では、このあたりの家はほとんどが東向きであったことが分かります。しかし、次の写真では、南向きの家が増えています。2枚の写真を撮影した時期の間に、多数の家が建て替えられたこと、そして、家を建てる向きが東向きから南向きに変化したことがわかります。我が家の変化が例外ではなく、当時の流行にのったものであることが想像されます。この流行の起源は不明ですが。

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南向きと東向きの家、どちらが良いのか。意見は喧々諤々、分かれる所です。ただ、この時期に、縁側で昼食が摂れることだけで、凡夫は単純に、南向きの方に軍配を上げます。冬季だからこその心地良さです。それは何ものにも代え難いことです。むろん、南向きの家であるが故に、北側の部屋には、一年を通して、一度も、まともに日が射し込まないと言う短所を知らない訳ではありません。
おそらく、東向きの家は、午前と午後の日差しの向きが変化することを配慮したものでしょう。朝日を東側の部屋へ、夕日を西側の部屋へ入れることができます。どちら側の部屋にも日差しが入ること、これは東向きの長所です。

今日もまた、ぽかぽかの縁側で、家内と、昼食のサンドイッチを食べました。南向きに建てた事由が何であれ、南向きの家を残してくれた両親に感謝しながら。

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ツバキ

2019 03 07 (art19-0113)
春の到来を感じてか、樹木の芽が少しずつ変化しています。冬の寒さに負けまいと、硬く固まっていた樹木の芽がほころんできました。もうすぐ春です。

冬の花の代表格のツバキ。1月下旬からポツリポツリと咲き始めたツバキが、日増しに花数を増やし、いまでは、全体に広がりました。木全体が赤い花で覆われています。照葉の常緑樹らしく、表面の照りのある緑の葉とのコントラストがみごとです。青空に映えます。

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この時期、ツバキの木にいろいろな鳥が飛来します。凡夫には、識別できる鳥の種類が乏しく鳥の名前はわかりませんが、大きさも、色も、いろいろです。ツバキの木に近づいて見ると、花びらは残っていますが、雌しべと雄しべが傷んでいる花が多数あります。中には、両者がごっそり無くなっている花もあります。せっせと花粉を運んでもらい、受粉をたすけてもらっているようです。鳥媒花の所以です。

“牧野富太郎の植物紀”より、
「花は小枝端に着き無柄で形ち大きく下に緑色の芽鱗と萼片とがあって花冠を擁している。花冠は一重咲のものは六、五片の花弁より成って基部は互に合体し謝する時はボタリと地に落ちる。花中に在る多雄蕊の本は相連合して筒の様に成り花冠と合体し葯は黄色の花粉を吐く。中央に一子房があって三つに岐わかれた花柱を頂き、子房の辺に蜜汁が分泌せらるるのでよく目白(めじろ)の鳥がそれを吸いに来り、その際に花粉を柱頭に伝え媒助してくれる。ゆえにツバキは鳥媒花であるといえる」

ツバキの花は “ポタリ” と、環状の雄しべが花弁にくっ付いたまま、落ちることは、よく知られています。この散り方は、鳥媒花であることに関係していると思われます。鳥媒花の特徴の一つは、花の構造が強固であることです。これって、“ポタリ” に通じますでしょう。

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ところで、京都府立植物園で、いろいろなツバキの花を楽しみました。ツバキは開花期が長いので、日程に余裕をもって出かけることができました。ここには、“古典品種から現代の品種まで約250品種600本を見本形式で植栽しています” との記載がありますが、本当に多種多様なツバキを観ることができました。

キッチン台(流し台と調理台)

2019 03 04 (art19-0112)
今住んでいる家は51年前に両親が建てたものです。父が死去して9年目、母の足腰が悪くなりましたので、廊下とトイレ、そしてダイニングキッチンの床をかさ上げして畳部屋との段差をなくしました。そして2年後、その母も亡くなりました。亡くなるまでの2年間、母の面倒をみるため、家内は横浜と湯梨浜町を頻繁に往復しました。

床をかさ上げして段差を無くした家は、それなりにすっきりしてよいのですが、一つ困ったことがあります。キッチン台(流し台と調理台)の高さです。ダイニングキッチンの床を上げたことでキッチン台が低くなりました。これは、キッチン台下の床をそのままにして床のかさ上げを行ったためです。この高さが、母にはよかったのですが、家内には低く、腰を屈めて調理することになります。家内から、なんとかしてほしい、とリクエストがありましたが、そのうちにそのうちにと、伸び伸びにしてきました。この度、本腰を入れて、以下の2点に着手しました。キッチン台の高さを家内に合わせるため、キッチン台を新たに作製し、古いキッチン台と交換すること。併せて、キッチン台下の床をかさ上げすること。

キッチン台の作製に取り掛かりました。まず、天板を、toolbox社から通販で購入しました。ここの商品は、流し台と調理台が一体物として加工されています。また、オーダーメイドですから、天板サイズの指定ができます。製品には排水トラップ一式が付属しています。
天板サイズは、キッチンの設置場所に合わせて、55 x 160cmとしました。天板は、厚さ 0.8mm のステンレス平板が 21mm 厚の合板下地に張り付けてあります。水栓の取り付穴の加工は、既存の蛇口をそのまま使用することにし、不要としました。

大型トラック(10トン)が我が家の前に停車した時は、驚きました。車から降りた運転手さんは、手際よく天板を降ろし、再び車に乗り込むと車を米子市へ向けて立ち去りました。
届いた 天板の寸法を測定し、注文通りに加工されていることを確認しました。そして、キッチン台の骨組みを jw-cad を用いて製図しました。天板の下台を3つの列に区切り、左列に三段の引き出し、中央列に2つの引き出し、そして、右列の下段に両開き戸のスペースを設けました。

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図面に従って、天板の下台を作製しました。
区切りは、20mm 厚のパイン集合材を用いました。引き戸の箱は、あられ組接合で長方形の枠をつくり、溝を掘って底板を嵌め込みました。出来あがった引き戸は、スライドレール(50cm) を介して区切り板に取り付けました。開き戸は、スライド丁番(35mm、全かぶせ)で区切り板に固定しました。引き戸の幕板と開き戸の板の模様に一体感を持たせるため、大判のパイン集合材を調達し、切断して用いました。塗装はウレタンニスの2回塗りです。
完成した下台に、購入した天板を載せてダボで固定しました。キッチン台の完成です。

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次に、古いキッチン台との交換作業に取り掛かりました。
まず、古いキッチン台を取り除き、床面をかさ上げしました。前回のかさ上げ時に使われていたフローリング材と同じ物(色と模様)を手に入れることはできませんでした。いろいろ手を尽くしたのですが。今では、旧型になり製造されていないようです。たまたま、近くのホームセンターが在庫処分のため旧型材を安売りしていました。色と模様が違っていましたが、安かったので3枚購入しました。根太で高さを合わせた後、フローリング材を貼りました。この作業は初めてでしたが、正確な寸法取りと切断さえ行えば素人でもできる作業です。

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家内と二人で、キッチン台を運び、所定の場所に置きました。周辺のタイル壁との隙間はシリコン材でコーキングしました。蛇口をスワンタイプのものに交換し、蛇口と流し台の間の空間を確保しました。
早速、家内は、新しくなったキッチン台を使って、「台が高くなったので作業がし易い。引き出しが深くて大きいので収納がたくさんできる」と喜んでいました。

作製者としては、家内が喜んでくれるのは嬉しいのですが、反省すべき点が2つあります。 (1) 引き戸の取付に安物のスライドレールを用いたこと。縦横方向のガタがあり、幕板間の隙間がピタリと均等に収まりにくい。 (2) 購入した天板には多少のそりがありました。ある程度のそりは修正したのですが、まだ幾分のそりを残したまま下台にとりつけたこと。下台に不均衡な力が掛かっているようです。
反省点は今後の機会に生かすとして、家内にはキッチン台をこのまま使ってもらい、不具合が出てきたらその都度修正しようと思います。

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