今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

梅の木

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畑の北側の東端にミカンの木がありました。この木は、畑で野菜をつくっていた母が歳をとり、畑の世話ができなくなった頃、姉が苗木を購入して植えたものです。大きく成長し、毎年、大きな実を成らしていましたが、3年程前、突然枯れてしまいました。手入れが悪かったのでしょうか、悔やまれます。

その跡地に、梅の木を植えることにしました。梅は、咲いた花を眺めても、実った果実で梅酒や梅干しをつくってもよしですから。近くのホームセンターで豊後と南高の苗木を購入し、2017年の秋に植えました。同じ梅の木でも、成長速度に違いがあるようで、枝ぶりが随分ことなります。豊後の方が生育旺盛です。翌年の春、小梅の苗木 (甲州小梅、小粒南高、白加賀) を通販で購入し、花粉樹として、豊後と南高の近くに植えました。狭い所に、梅の木が5本も植わりましたから、いずれ、1,2本、伐採することになると考えています。

昨年の春、豊後、南高とも花をつけましたが、その数、2,3個でした。今年は、それぞれ数十個の花をつけました。南高に白色の花が咲き、それが終わる頃、豊後に桃色の花が咲きました。両梅とも “自家不結実” と聞いていますので、結実には花粉樹を必要とします。残念ながら、今年は、花粉樹として植えた小梅に花が付かなかったので、花粉樹として役立っていません。

花柄の末端に離層があります。受粉しなかった花は、この離層からポトリと落ちます。開花後、数日たちますが、まだ、いくつか花の残骸が枝に残っています。目をこらして見ると、花の内側の子房がふくらんでいるようです。そのような花の残骸が、豊後の枝にいくつか付いています。子房のふくらみが見間違えでなく、すこしずつ大きくなるのではとの期待を胸に、連日、様子を窺いに畑に足を運んでいます。

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子供の頃、野花(のきょう)の叔母さんが野花豊後という梅の果実を袋に詰め込んでもってきてくれました。野花豊後は昭和15, 6年頃 野花のとある果樹園でみつかった梅の品種で、昭和25, 6年頃 野花豊後と命名されたと聞いています。特徴は大玉で果肉が厚いこと、そして、自家結実性があることです。
袋から出すと、梅の実でざるが一杯になります。緑っぽい硬い大きな実です。大人は梅干しを作ります。子供は、すこし黄色がかった梅の実を2,3個選びとって、自分専用の引き出しにしまいます。数日すると、甘い香りが部屋いっぱいに充満します。引き出しの中で果色が赤黄色にかわり、果肉が柔らかくなります。指で摘まみ、そのまま、口にいれて梅の実を噛みつぶします。甘酸っぱい果肉が口一杯にひろがります。

期待通り、畑の梅の実が大きく成長したら、子供の頃のように、梅の実を完熟させて食べようと考えています。

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研究生活-製薬会社(その3)

2020 03 26 (art20-0223)
前回のブログで、スイス本拠の外資系製薬会社の2つの感染症薬の研究所(イギリスと日本)のうち、イギリスの研究所が閉鎖された出来事を書きました。この話には続きがあります。
日本の研究所は抗真菌薬の研究を継続できるものと胸をなでおろしていたのですが、そうは問屋が卸しませんでした。後日、抗真菌薬の研究も終了することになりました。R本社にとって感染症領域からの全面撤退は決定事項であったようです。これで研究ができなくなるのかと所員の多くが気落ちしていました。ところがどっこい、研究所を閉鎖せず、疾患領域を真菌症から癌に移して創薬研究を引き続き行うとの告知がありました。

このあたりの経緯を推察するに、R本社は日本の研究所にもう少し何かやらせてみようと考え、日本の研究所は癌領域をやりたいと申し入れたのでしょう。魚心あれば水心です。数ある疾患領域から癌を選んだのは、R本社の長期的戦略を見越してのことかもしれませんが、それでも研究所なりの目論見があったと考えます。いわく、癌領域は取っつき易く、移行も容易で、成果を早く出せると。そう考えるのには以下の2点が関係しています。1.研究所では、抗真菌剤の創成研究の他に、癌の研究を行っていた育薬研究部がありました。この部は、大きなグループではなかったのですが、研究所が創った抗癌剤の上市を目指して研究を続けていました。2.抗真菌剤と抗癌剤の創薬コンセプトには共通点がみられるので、抗真菌剤の探索研究の経験が少なからず抗癌剤の創薬に活かせること。

カビ (真菌) の細胞と人の細胞はどちらも真核細胞で、構造・機能上よく似ていますから、カビの細胞を殺す薬剤は、同時に、人の細胞も殺しかねません。カビを殺す目的で服用した薬が人を殺しては本も子もありませんから、人を殺さずにカビの細胞だけを殺す薬剤が必要です。これは、抗癌剤の特質と相通ずるものがあります。理想的な抗癌剤は、癌細胞を殺して正常細胞を殺さない薬剤です。癌細胞は自己の正常細胞が変異して発生したものなので、自己の正常細胞と極めてよく似ています。癌細胞だけを殺す抗癌剤を創成することは、カビの細胞だけを殺す抗真菌剤の創成より、ハードルが格段に高くなります。しかしながら、どちらも、体内で増殖するカビ(外から入って来た細胞)、あるいは、癌(内から生育してきた細胞)を殺すことですから、同じような創薬戦術が使えます。

こうした大きな体制変更や組織改正には人員整理がつきものですが、ここでも行われました。人員整理を担当したのがアジア系米国人の L 所長です。これに伴い何人かは解雇されましたが、大きな問題になることもなく淡々と進行しました。
癌研究体制への移行も、事前工作が功を奏したのか、割とスムーズに進行したようにみえました。数日前はカビ (真菌) を培養していた人が、今日は癌細胞を培養しています。所員の割り切りのよさと変わり身の速さには驚きです。外資系研究所の所員だけのことはあると妙に感心しました。研究所は抗癌剤の研究所として生き残っています。

ところで、L 所長は日本の研究所で行った人員整理と癌研究体制への移行が評価されたとかで、アメリカ東部の研究所に所長として栄転しました。そこでの最初の大きな仕事がこれまたリストラでした。精力的に働いて、リストラを無事完了させました。そして、解雇されました。ここからは人づてに聞いた話で、真偽の程はわかりません。海外出張から帰り、いつものように研究所のゲートを開けようと社員カードを挿入したところ反応がなく、どうしたことかと守衛さんに訪ねたところ、挿入した社員カードが無効になっていると守衛さんから告げられたとのこと、それで、L 所長は自分が解雇されたことを知ったとか。ありそうな話です。”元” L 所長、おつかれさまでした。

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研究生活-製薬会社(その2)

2020 03 24 (art20-0222)
製薬会社勤務の20年間のうち、前半部は外資系の会社、後半部は日本名の会社で、ある意味、外資系と日本の会社の両方を体験したことになります。もっとも、ほとんど研究所に限定されますが。
外資系の面白いところは、浮き沈みの幅が大ききことです。一度沈んでも再起できますから、幅が大きくなるのでしょう。また、所員全員に関わるような重大な決定でも、所員はある日突然知ることになります。

ある会合で、イギリスの研究所に来ていました。ここは、ウイルスと細菌に対する感染症の創薬サイトでした。何か発表があるとかで全所員が集会所に集まりました。たまたま日本の研究所から来ていた凡夫らも加わりました。話の内容は、これこれの日をもって抗ウイルス・抗菌剤の創薬から撤退するといった、謂わば研究所閉鎖の宣告でした。多くの所員は、えっ何、と驚愕し、会場が騒然となりました。そして、質疑応答がしばらく続きました。海外ドラマや映画などで、社員の首切りが突然言い渡される場面は何度も見てきましたが、この閉鎖の宣告には驚きました。

まかり間違えれば、イギリスではなく日本の研究所がその目にあっていただろうと、後日耳にしました。スイスの R本社は、感染症領域の縮小化を決め、イギリスか日本の研究所のどちらかを閉鎖するつもりだったそうです。日本の研究所が生き残れた理由は、成果を出さなければつぶされるといった危機感を所員一同が共有していたからだと考えています。小さな研究所をつぶすのは簡単です。凡夫が入所する数年前に、上層部の人達が R本社に掛け合って、一つの疾患領域を取ってきて念願の研究所を立ち上げたばかりでしたから、奪われてなるものかといった気概があったのだと思います。R本社は生殺与奪の権をもっていますから、ことあるごとに、日本の研究所はよくやっているなとの印象を植え付けるように成果を出し続けることが強調されていました。

凡夫のチームが取り組んだ研究の成果発表は、その役割を果たしたように思います。このイギリスの研究所の閉鎖宣告に先立つこと数ヶ月、当地の研究所で開催された感染症領域の研究成果の発表会でのこと。イギリスのチームが、細菌の全ゲノム配列情報を用いて創薬ターゲット遺伝子を探索する戦略を発表しました。その頃、病原菌の全ゲノム配列の解読が進んでいましたから、ゲノムワイドの創薬ターゲットの探索方式がブームとなっていました。しかし、会場からの質問、“試験管内(in invitro)で選抜した遺伝子が、生体内(in vivo)で創薬のターゲットになるかどうかをどうやって知るのか、に答えることができませんでした。彼らは、in vivoの評価系をもっていなかったからです。会場におおきな落胆を残したまま、演者は引き上げました。その次に登場したのが凡夫です。ゲノム配列情報を用いた抗真菌ターゲットの網羅的探索の戦略を話しました。その中で、ターゲットの候補遺伝子のin vivo評価系(マウス使用)の構築と、その有用性を実際のデータを示して発表しました。これには、会場がうなりました、そして、日本の研究所はよくやっているとの称賛の声を耳にしました。

このin vivoの評価系の構築には紆余曲折があります。構築したin vivo評価系は、病原真菌をマウスに感染させ、体内で増殖させます。その後、病原真菌のターゲット候補遺伝子の発現をONからOFFにします。その結果、病原真菌の増殖が止まり体内から消滅すれば、候補遺伝子は創薬のターゲットになり得ると考える、といった概要です。ところで、マウス体内で病原真菌の遺伝子発現をONからOFFに切り替えるには、遺伝子をプラスミドベクターにのせて、細胞に導入しなければなりません。ところが、当時、病原真菌用のプラスミドベクター系がありませんでした。
凡夫が、最初に着手したのはこの病原真菌用のプラスミドベクター系の構築です。この構築作業を、ターゲット遺伝子の探索プロジェクトに隠れて、こっそりとやっていたものですから、見つかった時、部長に大目玉をくらい、プロジェクトリーダーから外され、1人になってしまいました。しかしその内、選抜したターゲットの候補遺伝子をin vivoで評価することの重要性が認識されるようになると、凡夫がこっそりと構築したプラスミドベクター系の有用性が理解されたようで、チームリーダーに復帰し、チームを率いてターゲットの候補遺伝子のin vivo評価系を構築しました。併せて、創薬ターゲットの探索に邁進しました。

こうしたことが評価されたこともあり(と凡夫は推察しています)、所内と、所外から人を集めて、ゲノムサイエンス部という新部をつくり、部長におさまりました。凡夫、入社6年目、45歳の時です。小さな部でしたが、それでも、ドライのバイオインフォマティクス部隊とウエットの生物学的実験部隊の両輪をそなえていました。3年後の2002年、日本の製薬会社の研究所との統合時に行われた改組で、ゲノムサイエンス部は、天然物化合物グループとIT/IMグループと連合し混成部隊となり、創薬資源研究部と改名しました。凡夫は引き続き部長を務めました。ゲノムサイエンス部は短命でしたが、凡夫にとっては愛着のある部でした。メンバーに恵まれて、小さいながらも、とても機動力と柔軟性に富む理想的な戦闘部隊でした。

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研究生活-製薬会社(その1)

2020 03 19 (art20-0221)
1993年6月、米国から帰国し外資系製薬会社(R社)の鎌倉研究所に入所しました。R社の本拠地はスイスのバーゼルにあり、スイスの他にアメリカに2つ(東と西)、イギリス、ドイツ、日本の5カ国6サイトに研究所を置いていました。数年後これらの海外の5サイトに頻繁に足を運ぶようになりました。それはさておき、6サイトの研究所は異なる疾患領域の創薬にフォーカシングしていました。凡夫が入所した頃はまだ感染症に重きがあり、2サイトで創薬研究を行っていました。棲み分けがはたらき、抗ウイルス剤と抗菌剤はイギリス、抗真菌剤は日本の研究所が担当していました。抗真菌剤とはカビの薬です。ただ、カビと言っても、水虫やタムシのような皮膚表面で増殖するカビではなく、体内で増殖するカビです。何らかの原因で免疫力が低下した時、カビが体内で増殖し深在性真菌症を引き起こします。

入社早々、ある抗真菌プロジェクトを引き継ぐことになりました。前任者の下で、アッセイ系(試験管内で標的分子の生化学反応に起こる変化を分析することで、化合物の生理活性を評価すること)の構築が試行されたのですが、うまく機能しなかったようです。理由は、アッセイに使用する蛋白質を生化学的活性を保ったまま抽出・精製できなかったことにありました。そこで、米国で酵素蛋白質の精製技術を身に着けた凡夫に、お鉢が回ってきたという訳です。しかも、プロジェクトまるごとで、チームリーダーの責務付きでした。このプロジェクトのラショナル(理論的根拠)は、蛋白質同士の結合をブロックするというチャレンジ的側面がありましたから、ブロックできるものかどうか関心がありました。

早速、アッセイ系の構築に着手しました。チーム員を連れて、近場の家畜賭殺場へ出かけ、豚の肝臓を貰い氷冷箱に詰めて持ち帰りました。低温室に駆けこみ、肝臓から調整した細胞溶解液を数種のカラムにかけて目的の蛋白質を精製しました。この時、米国のラボで経験したFPLCを使用しました。このFPLCは、入所前に必要機器としてリクエストしていた機器の一つで、入所後すぐに配送箱を開けてセットアップしたものです。難なく目的のタンパク質が精製できましたので、アッセイ系が構築できました。

構築したアッセイ系でスクリーニング(数万から数十万の化合物を評価して、生理活性の強い化合物を選抜すること)を試みたのですが、期待出来る化合物がみつかりませんでした。蛋白質と蛋白質の結合を阻害する分子を探していたのですが、どうやら、化合物のような小さな分子で蛋白質のような大きな分子同士の結合を阻害することはできないようです。

低分子化合物では無理でも、ペプチドのような高分子ではどうかと思い、すこし試してみました。蛋白質同士の結合部位を予測し、その部位のアミノ酸配列を化学合成、あるいは、大腸菌の発現系で産生して 10 - 15 アミノ酸からなるペプチドを調整し、阻害活性を調べました。調べた十数本のペプチドの中には、あきらかに阻害するものがありましたが、如何せん、阻害活性が高くありませんでした。
ここまでと判断し、このプロジェクトに終止符を打つことにしました。各サイトの首脳陣が列席した進捗会議で報告し、プロジェクト終了の承認を得ました。プロジェクトに参加してくれたチーム員の熱心な働きのお陰で、短い期間で終わることができて、人的・物的リソースを無駄に使うようなことにならずに済みました。

入社早々、このプロジェクトに関わり多くのことを学びました。多種の会議に参加することになり、創薬過程の全体像を具体的に理解できました。しかし、新参者の凡夫には、リーダーの裁量権が大きいこととか、チャレンジすることが肯定されていることとか、失敗もありとか、研究所の方針を感知したことの方が、その後の舵取りに重要でした。総じて、やりたいことが出来そうだという感触を得ました。

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研究生活-帰国と就職

2020 03 16 (art20-0220)
米国での生活は安定していました。ボスの好意のお陰で、一般の相場より多額の給料をもらっていました。また、毎年、ボスに給料アップを交渉して給料を上げてもらいました。その度に、ボスは「家族3人(後に4人)が生活するには十分な給料を払っている筈だが」と言い、どうして足りないのか不思議がっていました。確かに、周りの人と較べると多額でした。米国では交渉しないと給料は上がらないと聞いていましたので、実状はともかく、足りない足りないと言うようにしていました。後で聞いたのですが、日本からやってきた研究員で給料アップを要求したのは凡夫だけだそうです。

滞在期間を意識したことは無いのですが、退所するときに渡されたNIHの在籍証明書には、August 1989 – April 1993と記述されていますから、3年9ヵ月米国に滞在したことになります。渡米1年半後の1991年になると、ボスは日本のO大学に自分のラボを設けました。米国と日本のラボを行き来するようになり、米国のラボを不在にすることが多くなりました。また、日本からの派遣研究員は帰国しました。英国人のポスドクが去り、代わりに米国人ポスドクが入りました。ラボの状況とメンバーは変わりましたが、凡夫は左右されることもなく、自分の研究を続けていました。
1993年に入ると、3年間続いたリン酸化酵素を制御する蛋白質の研究が一段落しましたので、帰国を考えるようになりました。ボスに話すと、今は大学に適当な空籍がないと言うことだったので、2つの製薬会社に口利きしていただきました。スイスのバーゼルに本社がある外資系製薬会社と大阪に本社のある日本の製薬会社です。

日本に一時帰国し、両社の研究所へ出向きました。大阪の製薬会社の研究所(所在:豊中市)では、担当部門長が対応し研究所を案内してくれましたが、最終決定には至りませんでした。一方、外資系の製薬会社の研究所(所在:鎌倉市)では、所長室に通され所長のDHさんと面談し、仕事内容と組織体制、そして、サラリーとポジションなどアレコレ話し合いました。会話は全て凡夫の “得意?” の英語です。その場で、入社書類にサインしました。そのあと、凡夫の受け入れ部署の部長のMAさんに所内を案内していただき、帰りには最寄り駅まで見送っていただきました。入所後、MAさんには大変お世話になりました。

外資系の製薬会社を選んだのは研究所の中に入った時です。所長との面談はその選択を後押ししただけです。日本と外資系の会社の研究所の印象はかなり異なるものでした。日本の研究所を案内された時 “これは違うな” と感じました。その印象が残っているうちに、外資系の研究所を訪ねました。入った瞬間、“あっ、これこれ、この感じ” と思ったものです。さらに、通路を進むと、増々、その感覚が強くなりました。
研究所に入った時の印象に導かれるまま、1993年6月、39歳で外資系製薬会社の国内の研究所に入所し、9年間創薬研究に従事しました。2002年、会社は日本の製薬会社を買収し傘下に収め、国内の本部・研究所を統合しました。傘下に収めた会社の名称を日本での統合後の会社名として使用しています。この社名下で11年間研究所に勤務し、2013年60歳で退職しました。合わせて20年間、製薬会社の研究所に在籍していたことになります。
とりあえずどこかの製薬会社の研究所に勤め、頃合いをみてどこかの大学へ移るつもりでいましたが、入った研究所の居心地がことのほかよかったので、長居してしまいました。おそらく、日本の製薬会社の研究所を選んでいれば、こうはならなかったと思います。

5月、子供2人(娘5歳、息子1歳)を連れて帰国の途につきました。観光しながら帰ることにしました。ダーラムからユタ州のソルトレークシティーに飛び、その地で借りたレンタカーで南下しネバダ州のラスベガスを目指しました。途中、グランドキャニオンを観光。生命研で出会ったMさんが加わり、5人となり、ちょっと窮屈な車の旅になりました。ラスベガスを楽しんだ後、レンタカーを返してサンフランシスコへ飛びました。その地の観光を楽しんだ後、成田へ飛びました。

さて、小さな事件がサンフランシスコ空港の搭乗口で起こりました。家内が息子を連れて、自分だけの搭乗券を示して、通過しようとした時「ちょっと待て」と男性の係員に呼び止められて、息子の年齢を尋ねられました。家内が1歳10か月と返答すると「そんな筈はない、どう見ても2歳にはなっている」と言い張ります。家内は「なっていない」、係員は「なっている」と言い合いになりました。困りはてた家内は「それでは証明しましょう」と言いながら、パスポートを出そうとした時、傍にいた女性の係員が「この子のなりは大きいが、顔つきが幼稚に見えるから、2歳にはなっていないようだ」と発言して男性の係員を説得しました。男性の係員も納得したようで、通してくれました。当時(今もかな?)、アメリカの航空会社には、2歳以上は座席の確保が必要、つまり、大人運賃の航空券が必要、という決まり事がありました。

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研究生活-USA(その4)

2020 03 12 (art20-0219)
子供と家事は家内にまかせ、凡夫は研究に没頭しました。休みの日に、近場の遊び場に車で連れ出す以外、家のことは何もしませんでした。家族が増えた後もそれは変わりませんでした。渡米時、娘は2歳で、2年後に息子が産まれました。見知らぬ土地で、家内は一人で子供の世話と家計のやりくりを担っていたようなものでしたから、大変だったろうと思います。
家内は子供の成長過程を詳細に記憶していますが、凡夫は、ゼロに近い状態です。家内が、いろいろ面白いエピソードを話してくれても「えっ、そんなことがあったのか-」と言うばかりで、思い起こそうと努めても、何も出てきません。今思うに、少しは子育てに関心を寄せて、記憶に刻んでおいてもよかったかなと。家内は、と言うべきか、母親は、と言うべきか、子供に関することだけでなく、いろいろな事柄をこと細かに覚えています。ある意味で不思議な生き物です。それでも、凡夫も、いくつかの出来事は覚えています。

【夜中に誰かが我が家の寝室に入る】
米国で生活を始めて数ヶ月、寝静まったある夜、家内はドアをノックする音を聞いたそうです。怖くなって、掛け布団をかぶってノック音が止むのを待ったそうです。しかし、ノック音は執拗に続き、そのうち、ドアを開けて、誰かが侵入した気配がして増々怖くなり横に寝ていた凡夫を起こそうと体をゆすったと言います。ここからは凡夫の記憶です。寝ぼけまなこに入ってきたのは、懐中電灯の光と、枕もとにたたずむ数名の人影、そして、こちらへ向けられたピストルの銃口らしきもの。同時に、誰かが喋っている声が耳に入ってきました。しかし、寝ぼけ状態の凡夫には、何が起きているのか状況が把握できず、また、何を喋っているのか聞き取れず、しばらく、そのままぼーっと横になっていました。段々目がさめてくると、枕元に立っている人影が1人の警官と2人の住民であることが分かりました。
警官とのたどたどしい言葉のやり取りで、なんとか状況が理解できました。入口のドアが少し開いていることに気づいた隣人は、部屋の中で何かよからぬ事でも起きたのではと思い警官を呼んだそうです。ドアを叩いて、入ってきたのは警官と隣の夫婦でした。単なるドアの閉め忘れで、何事もなかったことを看取した彼らは立ち去りました。その間際、「この人たちは大丈夫だろうか?」との話し声が聞えたとか、聞えなかったとか。ただ、その心配は杞憂だったようで、その後、警察の世話になることは一度もありませんでした。否、一度ありました。ワシントンD.C.のスミソニアン博物館横の路上で駐車違反の切符を切られました。

【僕テニスが出来る、とのたまう】
アパートの敷地にはテニスコート施設が付属していましたので、天気の良い休日は、テニスを家内と楽しむことがありました。テニスは、特研員(ポスドク)として生命研に入所してすぐに、研究員のTさんに誘われて始めました。生命研にはテニス愛好家が多く、連日夕方になると多数の男女がゲームに興じていました。テニスを始める前は、女子供のスポーツだと軽く考えていましたが、実際やってみると、激しいスポーツであることが分かりました。面白くなり、生命研退所後に勤めた熊本の大学でも続けました。ここでは、部活でテニスをやっている学生を捕まえては相手になってもらいました。すこしは、上達したものと自負しています。
さて、家内とテニスを楽しんでいると、コート脇で遊んでいた娘が「オシッコ」と母親を呼びます。テニスを中断して、家内は娘の面倒をみます。テニスを再開するのですが、しばらくすると、娘が「オシッコ」と母親を呼びます。テニスを中断して家内は娘に付き合うのですが、娘の「オシッコ」は、生理的なオシッコではなく、“かまってほしい、いっしょにあそんでよ” のようです。結局、家内は娘と遊ぶことになり、家内とのテニスはここまでとなりました。凡夫は、もう少しやりたかったので、周りに相手をしてくれそうな人を探しました。都合よく、中高生らしい男子がいましたので、「テニスはできるの?、できれば相手になってくれないか」と尋ねると、「僕はテニスができるから相手をします」と、何の迷いもなく、自信満々の返事でした。よい相手が見つかりラッキーと思い、早速、テニスを始めたのですが、とてもとても、テニスになりません。打ったボールがほとんど返ってきません。たまに返ってくるボールは、コートを大きく外れています。早々に、礼を言って、男子とのテニス?を終えました。
荷物を整理し、家族が住むアポート棟へ足をむけながら「さすがアメリカは違うな-。あの程度で、僕はテニスができる、と言えるとは。日本では、とてもとても、そうは言えないな-」などと家内に話すと「日本では、かなりできる人でも、あまりできませんがとか、へたですがとか言うのに」と言っていました。

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研究生活-USA(その3)

2020 03 09 (art20-0218)
所属ラボのメインは生化学でした。生体組織から酵素や蛋白質を抽出し精製することです。使用する機器は、主に、中圧液体クロマトグラフィーのFPLC (Fast protein liquid chromatograpy)で、移動相には水性の展開液を用います。蛋白質は多数のアミノ酸が鎖状に結合したものが折り畳まれた高分子で、固有の形状を保ちます。構成アミノ酸の数や種類と結合順番、そして、修飾の有無等によって、大きさや表面電荷に違いが生じます。表面電荷の違いは、蛋白質がイオン交換樹脂性等の充填カラムを通るときの移動速度に遅速を生み出します。この移動速度の違いに基づいて蛋白質を分別します。これがFPLCです。大きさが異なり、表面荷電が大きく異なる蛋白質を分別し精製することは誰にでもできますが、同じような大きさで、同じような表面荷電をもつ蛋白質を分別し精製することは大変で、誰にでもできることではありません。特に、酵素などを、生化学的活性を保ったまま精製する場合は。どの種のカラムをどのような順番で使用するか、試行錯誤の世界です。もたもたしていると生化学的活性が消失してしまいます。職人技とも言える世界です。ボスのSサンのラボはこの世界ではトップクラスでした。

RHさんの話を聞きました。RHさんは、数年前に研究室にいたポスドクで、凡夫は直接会ったことはありません。生体から新規のDNA合成酵素の精製に取り組んだそうです。生体細胞を溶解し蛋白質を抽出、あるいは、分離した細胞核分画から蛋白質を抽出します。抽出した蛋白質を最初のカラム:FPLC(あるいはゲルろ過カラム)にかけて数十の分画に分け、各分画をDNA合成アッセイ系(放射性同位元素で標識した基質の取り込みを指標にしたもの)にかけて、DNA合成のポジティブ分画を同定します。ポジティブ分画が複数あればそれぞれを次のカラム:FPLCにかけて数十の分画に分け、それぞれをアッセイ系にかけて、ポジティブ分画を同定します。そして、全てのポジティブ分画を次のカラム:FPLCにかけて、云々です。PAGAE電気泳動で一本の蛋白質のバンドになるまで、カラム:FPLCによる分画とアッセイを繰り返す訳です。作業自体は単純なのですが、それでも、FPLCは低温室での作業になりますから寒いところを出たり入ったりで体力を要します。また、アッセイ系には放射性同位元素を使いますから神経を使います。精製の後半になると蛋白質濃度が下がり、もたもたしているとDNA合成活性が消失します。
結局、精製に 6年間を要し、7年目に論文を発表したそうです。それまでの 6年間、論文はゼロだったと聞いています。DNA合成酵素の精製技術のトップクラスのラボですら 6年間もかかったのですから、いかに難しい精製であったか、想像に難くありません。RHさんの論文のお陰で、後続の人は合成酵素を精製できるようになりました。また、精製した合成酵素から抗体を作製し、遺伝子を釣り上げることもできました。これを担当したのが英国人のポスドクでした。釣り上げた遺伝子を用いて合成酵素の特性を調べていたのが、日本人の派遣研究員でした。

凡夫が最初に手掛けた実験は、ポスドクのKDさんが研究していた遺伝子を破壊することでした。KDさんが破壊したところ面白い結果が出たので、ボスの勧めで、再現性を確認するための実験を行いました。結果はKDさんの結果のようにはならず、何も起こりませんでした。凡夫のやり方がおかしいのだと、ボスとKDさんに言われましたので、もう一度やってみました。結果は同じで何も起こりません。そこでKDさんの実験方法を精査したところ、方法に問題があることが判明しました。このことがあってなのか、ボスは凡夫をしばらく放任してくれましたので、これ幸いと、関心をもっていたあるリン酸化酵素の周辺蛋白質を探ってみました。少し面白くなりそうな結果がでましたので、ボスと相談の上、この線に沿っで研究を進めることになりました。研究は3年間程続きました。この間、生体からの酵素や蛋白質の生化学的精製技術をしっかり身に付けることができました。この技術は次の職場で大いに役立ちました。

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研究生活-USA(その2)

2020 03 05 (art20-0217)
新生活の準備が大方終わると、あとは家内にまかせて、凡夫はSさんの研究室に通い始めました。研究室には、英国人と数名の米国人のポスドクとテクニシャン、そして日本人のAさんがいました。AさんはO大学の教員で、大学から派遣されてここで研究を行っていました。凡夫は英会話が苦手でしたので、日本語で話しができることはたいへんたすかりました。

同じラボのポスドクやテクニシャンと会話する機会が多くなり、最初はなかなか通じなかった英語がよく通ずるようになりました。お-っ、随分英会話が上達したものだ、と気分をよくしました。ところが、他のラボのポスドクやテクニシャンと話すと思っていたほど通じません。はて、どうしたのか? 分かったことは、同じラボのポスドクやテクニシャンは凡夫のへたな英語に慣れて聞き取れるようになっただけで、凡夫の会話力が上がった訳ではなかったということです。これは、ちょっとショックでした。しかし、過去のある場面を思い起こせば、まあ、こんなものだろうと、得心が行きました。

中学校に入学し、英語を習い初めて2ヶ月程たった頃のある日の授業で、男性の英語教師が言いました。「クラスのなかで、英語の発音が最も悪いのは、XXとAAである」と。XXは凡夫で、AAはお寺の跡取り息子。自分の発音が悪いことは棚に上げて、A君の発音が悪いのはなんとなく分かるなーと、思ったことを覚えています。もう一つ覚えていることは、この英語教師の発音が凡夫にはとても気持ちの悪いものであったということです。A君ではありませんが、お経を聴いている方がずっといい心地です。気持ちの悪くなるようなことはしたくありませんから、発音の練習から、そして英語の勉強からも離れていきました。

それでも、半年ほど経つと、他のラボの人とも話ができるようになりました。これは、発音とかアクセントとか抑揚とかが云々ではなく、単なる “慣れ” だと思います。英語に慣れるというより英語を話す人に慣れたのだと。毎日、地元の米国人や他国からの留学生など、いろいろな人と接することで、話すことが日常になり、段々、話している言語を意識しなくなります。帰国する頃には、普通に英語を喋っていたと思います。

渡米したのが夏でしたからアイスクリームをよく食べました。困ったことに、バニラアイスクリームのバニラが全く通じませんでした。ドライブスルーで車を止め、マイクに向かって「バニラアイスクリーム、プリーズ」と注文すると、バニラが通じないようで、「何のアイスクリーム?」とスピーカーから返ってきます。「バニラ」と言うと「何?」と、「バニラ、バニラ」と、何度連呼しても、「何?」が返ってきます。からかわれているのかなと思うほど、通じませんでした。別の日に、あるいは、別の場所のドライブスルーで注文しても、やはり「何のアイスクリーム?」と返ってきましたから、からかわれている訳ではなさそうです。で、どうしたかと言うと、車の扉から上半身を乗り出してマイクに向かい、声を張り上げて「バニラ」と言うと、「おっ、バニラね」とか言って、受け付けてくれました。
しかし、よくしたもので、しばらくこちらで暮らしているうちに、普通の声で「バニラアイスクリーム」と注文しても通じるようになりました。バニラの言い方を意識的に変えたつもりはありませんから、これは “慣れ” がもたらしたのだと思っています。気づかないうちに変わること、これが ”慣れ” です。そして、変化に気づいた時には変わってしまっています。
ともあれ、これは、家族内ではバニラ事件と称する、笑い話の一つです。

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研究生活-USA(その1)

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熊本の大学に勤務して4年目、福岡で開催された学術講演会に参加した折、会場で演者のSさんに会いました。Sさんは大学院を出ると渡米し、一貫してDNA複製の研究を続けていました。いくつかの大学や研究機関を渡り歩いた後、NIH (National Institutes of Health、USA)の研究機関 NIEHS(National Institute of Environmental Health Sciences、North Caroline USA)に落ち着き、自分のラボを運営していました。Sさんのラボで研究したい旨を伝えますと、その場でOKを出してくれました。
渡米の手続き(就労ビザの取得)にかなり日数がかかったのですが、どうにか手続きを済ませました。大学を退職し、8月に家族3人で渡航の途につくことができました。

熊本の荷物を郷里に送り、そこで数日、そして、家内の郷里で数日過ごしました。成田空港からデルタ航空の飛行機に乗り、14時間後アトランタ国際空港に到着、そこで中型飛行機に乗り換えて2時間後、ローリー・ダーラム空港に到着しました。機外に出ると、外は真っ暗で、高温多湿の空気にむっとしたことを記憶しています。深夜に近いためか人影が少なく、ちょっと不安になったのですが、空港ターミナルにSさんの姿を目にした時はほっと息がつけました。挨拶もそこそこに、Sさんの車でSさん宅へ向かいました。翌日はSさん宅でゆっくり過ごし、夕方歓迎会を開いていただきました。

Sさんのアドバイスに従って、生活を始める準備にとりかかりました。
1.車の購入。
当時も、今も、この地では車が無いと生活できません。バスや電車の類はありませんから、通勤や買い物等の移動には自分の車を使わざるを得ません。この事情は、現在の湯梨浜町によく似ています。各家に2台(普通車と作業用の軽トラック)どころか、各人が1台の普通車を持っている家も多数あります。どこへ行くにも車を使っています。凡夫が小さい頃、多くの住民が利用し、込み合っていたバスは、今では、乗る人もなく、空のまま走っています。運行本数も、かつては、1時間に何本もあったのですが、今では、1日に8本です。
家内用には小型(トヨト・ターセル)の新車を 6,000ドルで、凡夫用には、後日、中型(フォード・マスタング)の中古車を 2,000ドルで購入しました。1ドル 140円の頃ですから、かなりの出費でした。ただ、帰国時に、小型車は家内の知り合いの中近東系の女性に4,000ドルで、中型車は中国系の人に 1,500ドルで売りましたから、実質的にはそれ程大きな出費ではなかったと思います。両車とも、滞在中、一度も故障することなく走ってくれました。

2.運転免許証の取得。
米国の運転免許証は、前のブログで書きましたように(art18-0080)、簡単に取れました。ただ、ちょっと気になる点が実技試験にありました。試験管が車の助手席に乗り込み、一般道路上で、「あっちへ行け、ここで回れ」などと指図します。それに従って受験者は車を操作します。この実技試験に使用する車は受験者の車です。実技試験を受けるには、試験用の車をもってこなければなりません。実技試験を受ける受験者は運転免許証を持っていない筈ですから、自分で運転して車を持ってくることはできません。ちょっと?変でした。凡夫らの場合、家内は日本の運転免許証を持っていましたから、渡米前に国際運転免許証に書き換えていました。家内の運転で、購入したばかりの車を運転免許オフィイス(DMV:Department of Motor Vehicles)にもっていき、その車で実技試験を受けました。合格すると、免許証はその場で交付されます。手数料の10ドルを払い、運転免許証を手に入れました。

3.アパート探しと賃借。
いくつかのアパートを観て回りました。熊本のアパートに較べるといずれのアパートも立派に見えました。数部屋からなる2階建ての建物が、多数、広い敷地に散らばって建っていますから、調和のとれたゆったり感があります。また、高い天井と広い部屋は開放的です。どのアパートにするか迷ったのですが、結局、家賃が決めてになりました。高くもなく、安くもなく、中くらいのアパートです。Park Ridge Estates Apartment。家賃は月600ドルで、2つの寝室と広い居間で構成されていました。それでもプールとテニスコートが共用施設として付属していました。アパートは54号線沿いに位置し、研究所まで10km、車で10分、でした。

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