今日も、"ようこそ"      

今日も、"ようこそ"

定年退職後、横浜市から湯梨浜町(鳥取県)に転居しました。 ここには、両親が建てた古い家が残っています。 徒歩5分で東郷池, 自転車15分で日本海です。 また、はわい温泉の温水が各家庭まで届き、自宅温泉を楽しめます。 ブログでも始めようかと、HPを立ち上げました。最近始めた木工工作と古くなった家のリフォームの様子を、田舎の日常に織り交ぜながら、お伝え出来ればと思います。

干し柿 (2020年)

2020 10 29 (art20-0285)
今年も、干し柿を作りました。
10月1日のブログ(畑の様子 10月上、art20-0277)に書いたように、9月下旬に樹上軟化症が発生し、多くの果実が赤黄色に変わり、柔らかくなって、落ちました。更に、葉枯病が蔓延しました。樹上に残っている果実も、このまま、落ちてしまうのではと心配していました。
その後、しばらく落果は続きました。それでも、かなりの数の果実が残りました。その数約350個です。10月中下旬になると、例年と同じように、硬い果実のまま果皮の色が赤黄色に変わり、収穫期を迎えました。

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天気と相談しながら、干し柿作りを開始する日を窺っていましたが、24日からしばらくの間晴天が続きそうでしたので、その日に行うことにして、前日、近くに住む姉を誘い、3人で柿を収穫しました。作業後、姉は自分んで収穫した柿を持ち帰りました。

24日は朝から、家内と干し柿作りです。
作業は例年通り(art18-0072)、収穫した柿の皮を剥いて紐に掛け、ちょっと熱湯に浸した後、軒先につるします。今年で3度目ですから、2人とも慣れたもので、手際よく作業が終了しました。

青空に、吊るし柿の橙色が映えます。ただ、柿の品種は “平核無” なので、名の通り平らで四角張っていますから、紐につるした姿は、かなり凸凹です。“西条柿” のように、スマートな姿になりません。それでも、乾いて小さくなると見栄えがよくなります、が、色が黒ずんできます。

このところ良い天気が続いていますからよく乾きます。2,3週間ほどで食べごろになるかと思います。完成した干し柿は、冷凍庫にいれておけば一年中食べることができます。家内は、今も、昨年の干し柿を冷凍庫から取り出し解凍しては、ちょっとしたおやつとして食べています。

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羽衣石城(うえしじょう)

2020 10 26 (art20-0284)
雨天や曇天が続くと、天気が良い日は何処かへ出かけたくなります。家内と相談して、近くの羽衣石城へ行くことにしました。羽衣石城は、東郷池の南にそびえる羽衣石山 (372m) の山頂にあります。羽合平野から池向こうにそびえる山々を望むと、西日を浴びて光っている小さな一点が視界に入ります。

羽衣石城は、貞治5年 (1366) 、東伯耆を治めていた南条貞宗が築いた山城です。慶長5年 (1600) 、南条元忠が、関ケ原の戦いで西軍について敗れ、廃城になるまでの 234 年間、南条氏の拠点となっていました。この間、伯耆の支配権を巡る尼子氏や毛利氏との激しい戦を繰り返したようです。
昭和6年 (1931) 、南条氏の子孫の手により、山上にトタン張りの模擬天守が建造され、平成2年 (1990) には、三層の鉄筋コンクリート製の天守に建て替えられました。同時期に、中腹(城への登山口)までのアクセス道路が整備されました。併設の駐車場はトイレ付きです。(ウィキぺディア参照)。

  11時、家をでました。東郷池の池畔周回道路を反時計方向に走り、長和田から羽衣石川沿いの道に入り、上流へ進みました。道路は段々狭くなり、対向車とのすれ違いができなくなりましたので、運転席の家内に、対向車の有無に気を配るようにと言葉をかけました。2.8km 走行後、川沿いの道路から左に折れた道に入り、羽衣石城登山口へ向かいました。そこから 1.4km 進むと、登山口の駐車場に到着です。

駐車場の案内板は、2つの登山道が表示されていました。トイレにむかって、左の登山口から入る大手口コースと、右奥から入る搦め手口コースです。城まで、それぞれ、0.5km (徒歩 20分)、0.4km (徒歩15分) とあります。羽衣石山の標高は372m ですから、駐車場の標高は200m ほどでしょうか。そうすると、高低差は、170m前後となります。(帰宅後、国土地理院のウェブ地図(等高線付き)にアクセスし、登山口の標高が200m弱であることを確認しました)。

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登りは大手口コース、下りは搦め手口コースをとることにして、大手口コースに取りつきました。石がごろごろしていて登りにくい道でしたが、大きな杉の木を道脇に見ながら足を運び、何とか、休憩を入れることなく、山頂の東側にたどり着きました。本丸は東西に長い長方形型の平坦地でした。その西の端に、模擬天守が建っています。建物は鉄筋コンクリート製で、四方の壁にはガラス窓があります。羽合平野から見て、西日を浴びて光っていたものは、この窓のようです。模擬天守は三層のこじんまりとした建造物でした。もっとも、模擬とは言え、実際にこのような天守が存在したかどうか定かではないとのことです。

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それはさておき、城の西側に立つと、眼下に日本海に隣接した羽合平野と東郷池が一望できました。青空の下、すばらしい眺めです。腰を下ろして、2人でお昼を、ゆっくり食べました。城跡にはあまり面白いものがありませんが、ここからの眺望は一見の価値があります。ただし、青空の下でという条件付つきですが。
帰路は予定通り搦め手口コースを下り、15分ほどで、出発地点の駐車場に着きました。

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本「新型コロナウイルスの真実」

2020 10 22 (art20-0283)
このところ、本はアマゾン通販で購入していましたが、先日久しぶりに本屋(今井書店倉吉店)に行きました。今井書店は、山陰地方で最大規模の書店グループで、27店舗を鳥取県と島根県で展開しているそうです。50年程前になりますが、高専生の時によく米子市内の今井書店を利用していました。当時の本屋は、市内のアーケード商店街の一画にあり、縦長の店舗だったと記憶しています。
県中部の倉吉市内には、現在、2店舗、倉吉郵便局前とパープルタウン内にあります。

本屋のよいところは、実際に本を手に取って中身を読むことができることです。陳列棚に並んだ本のタイトルを見ていると、中身を覗きたくなる本がチラホラ目に留まります。そんな本を手に取ってパラパラとページをめくり、所々読んでみることは、本屋ならではの特典です。タイトルから想像した内容とのギャップ、そんな見当違いをも楽しむことができます。
ところで、購入してまで読もうと思える本は多くはありません。いつの頃からか、本を手にレジへ向かう前に、ちょっと待てよと、もう一度、自問するようになりました。時間をかけて読むに値するかどうか、そして、値段に見合うものかどうか、を。多くの場合、陳列棚に本を戻すことになります。

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今回、久しぶりの本屋であったこともあり、数冊の本を購入しました。その一冊が岩田健太郎著の「新型コロナウイルスの真実」(ベスト新書、2020年刊)です。新書版で気軽に読める本です。岩田氏は、神戸大学大学院の感染症学の教授です。プロが書いた感染症対策の話ですから、それなりにためになります。特に、第1章の 「[コロナウイルス]って何ですか」、と、第2章の 「あなたができる感染症対策のイロハ」、は。

このところ、国内の新型コロナウイルス感染者数が一日あたり500人前後で推移しています。新型コロナウイルス感染症の拡散が抑えられている状態と言えます。新型コロナウイルスとの付き合いがうまくいっているのでしょう。この状態を維持するために、今一度、新型コロナウイルスとはどういうものかを理解し、有効な感染症対策を再確認しておくことは有益であると思います。第1章と第2章の内容はその役割を十分に果たします。

さて、凡夫がこの本で、読みたいと思った箇所は、第3章の「ダイヤモンド・プリンセスで起こっていたこと」です。岩田氏が、感染症の専門医として、感染渦中のダイヤモンド・プリンセス号に乗船したことは知っていましたので、どのような状況であったのか、専門医からみてどのような印象を受けたのか、興味がありました。

2020年1月20日に横浜港を出港したクルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客で, 1月25日に香港で下船した80代男性が新型コロナウイルス感染症に感染していたことが2月1日に確認されました。これが最初の感染者の報告です。以降、船内の船員や乗客の中に、感染者が次々見つかり、新型コロナウイルス感染症の集団感染の発生となりました。

ダイヤモンド・プリンセス号には3,713人の乗員乗客(船員1,068人, 乗客2,645人)が乗っていましたが、712人の患者、14例の死亡が確認されたそうです。また、その他に検疫官や船会社の医師ら外部から対策に入った9人の感染が確認されたそうです。(IASR Vol. 41 p106-108: 2020年7月号より)

このようなダイヤモンド・プリンセス号での集団感染は未曽有の事例であったと言われていますが、現場の感染症対策はどのようなものであったのかの報道がすくなく、実態が不明のままでした。そんな中、岩田氏は、感染症対策の専門家として要請され、船内に入り、実状を視察することができたそうです。ただ、2時間程で、退船を与儀なくされたそうです。本では、感染症の専門医からみた、感染症対策の問題点が指摘されています。船内での2次感染を含めた感染拡大を招いたのは、感染症の素人が対策の音頭を取らざるを得なかったことにつきるようです。

やはり、新型コロナウイルスとはどういうものかの理解、特に、新型コロナウイルスが人から人へどうやって感染するのかを正しく理解した上で、適切な防御策を講ずるべきです。これは、ダイヤモンド・プリンセス号だけの話ではなく、巷の新型コロナウイルス感染症についても言えることです。

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病気が治るとは

2020 10 19 (art20-0282)
昨年末に、肺血栓塞栓症で近くの病院(厚生病院)に緊急入院しました。退院後、薬を飲み続けてきましたが、先週、担当医との面談で、薬の服用を止めて様子をみることになりました。服薬を続けても、今以上に体調が良くなることが期待できないからです。それでも、薬が凡夫には合っていたようで随分快復しました。肺機能を気にすることなく過ごすことができます。日々、畑仕事や木工と家の修理等で身体を動かしています。ただ、肺機能が元の状態に戻っているのかと問えば、答えは、いいえ、です。しかし、そうであっても、今は、病気が ”治った” 状態にあると言えます。

“病気が治る” の表現には、患者と医者で違った意味が含まれているようです。患者の言う「先生、治してください」や「先生、治りますよね」での ”治る” は、病気が完全に治ること、そして元の状態に戻ることを意味しているようです。病気が完全に治ったことを “完治” と言いますが、患者の言う ”治る” は、完治と同等です。一方、医者の言う「治りますよ」や「治りました」は病気の症状が良くなり臨床的にコントロールされた状態になること、また、その状態が続いていることを意味しているようです。これは、“完治” ではなく、“寛解” に近い内容です。

怪我や軽い骨折などの場合は、何らかの傷跡は残るでしょうが、元の体に戻ります。また、風邪や単純な腹痛なども元に戻ります。これらは、完治できる病気と言えます。「治った」を、患者と医者の両方で同じ意味で使用できます。しかし、病気の多くはこうはいきません。一度壊れてしまうと元に戻りません。糖尿病、高血圧、高脂血症などの生活習慣病の患者を考えるとわかります。症状がひどくなると入院して治療を受けます。症状が良くなると患者は退院して日常生活に戻ります。しかし、完治して退院したわけでは無く、患者は、服薬を継続することで、血糖値や血圧やコレステロール値をコントロールしながら日常生活を営むことになります。定期的に病院に通い、医者の診察を受けることになります。医者が「治ったので退院できますよ」と言うのは、このように症状が臨床的にコントロールされた状態になったときと聞いています。

肺血栓塞栓症で緊急入院した数日後、医者から、「この状態だと、酸素ボンベを携帯しながらの生活になるでしょう」と言われました。車輪付きのキャリアーに酸素ボンベを載せて、酸素を吸引しながら、ぬっくりと歩けるようになった頃だったので、ショックでした。酸素ボンベ携帯の生活がどのようなものか実感できたからです。これでは、一人で外出することは大変です。これからずーと家の中で過ごすことになるのかと考えると、気が滅入りました。そのような生活でも、生きていられるのだから良かったと考えるべきかもしれませんが、なかなか、受け入れられるものではありません。幸い、その後、肺機能がいくらか快復し、酸素ボンベから解放されて自分の呼吸だけで歩けるようになりました。数日後、退院して自宅療養に入りました。
医者にとって治るとは、肺機能が完全に元の状態に戻ることではなく、酸素ボンベ携帯の生活ができるようになれば、それが治った状態です。故に、酸素ボンベを抱えての退院も、あり得たのです。実際、隣の患者はその類でした。凡夫の場合は、酸素ボンベが必要のない状態まで治って、退院できました。

今、思う様に動けること、このあたりまえのことが、とても、ありがたいことに思えます。お世話になった病院の担当医と医療スタッフには感謝しています。どうもありがとうございます。

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工具を置き忘れる

2020 10 15 (art20-0281)
年齢にともなう心身の変化の一つとして、前回のブログ(art20-0280) で、 ゴツンと “鴨居に頭をぶつける” ようになったことを書きました。今回は、2つ目の変化を取り上げます。

趣味の延長として、木工や家の修理を行っています。作業には電動工具を使います。電動工具が増えると細工の幅が広がり、また、複雑な加工が短時間で出来るようになりますから、楽しさが増します。電動工具様様です。経験の乏しい凡夫のようなにわか職人?にとっては。
それはさておき、木工や修理作業には、電動工具だけでなく、小さな工具類も使います。問題はそうした工具類です。近ごろ、工具を使った後、どこかに置き忘れて探すことが多くなりました。

状況はこんな具合です。ペンチを使って、太い針金を曲げる、その後、針金を所定の長さに切断しようと試みるが、硬くで切断できない。どうやって切断しようかと考え、切断専用の工具ワイヤーカッターがあったことに思いあたり、立ち上がって部屋の壁にかけてあるワイヤーカッターを取りに行く。ワイヤーカッターを壁から持ってきて、針金を切断する。
次の針金を手に取り曲げようとすると、手元にペンチが無い。どこに置いたのか記憶がない。思い出そうと努めても、思い出せない。しかたなく、そこらじゅうを探すはめになる。どうにかみつけたペンチは壁の近くにあったりする。ワイヤーカッターをとりに行った時に置いたようだ。あるいは、壁への途中の作業台にあったりする。どちらにしても、ペンチを置いた場所の記憶が無いのではなく、ペンチを置く行為それ自体の記憶がない。それ故、記憶をたどって置いた場所を特定しようと努めても、徒労に終わる。

かつては、置いた場所を思い出そうと務めると思い出せました。一連の行為(ペンチを持ったまま移動し、ペンチをどこかに置く)が、頭脳に逐一記録 (記録風の記憶) されていたようです。意識的な行動だけでなく、無意識的、あるいは、習慣的な行動も、記録されていたように思えます。従って、記録をたどれば、ペンチをどこに置いたかを知ることができました。あたかも、ビデオレコーダで録画した画像を、撒き戻して見るかのごとく。近ごろ、どう頑張っても思い出せないのは、頭脳に記録されていないのではなかろうかと推察します。記録されていれば、それは海馬で処理される短期記憶の類でしょうから、直後であれば呼び起こせるものと思います。

ところで、ペンチをどこかに置く行為は、ワイヤーカッターに気がとられている状況下で行われています。年をとると、脳の機能低下のため、複数のこと(ここでは、ペンチを置くこととワイヤーカッターを取りに行くこと)を同時に処理(ここでは、記録/記憶する)できなくなっているのかもしれません。
コンピューターの頭脳である CPU (中央演算処理装置) は、基本処理単位である1つのコアで同時に複数の命令系列を実行することができます。1つの命令系列の実行機能をスレッドと言いますから、1コア2スレッド、1コア4スレッドなどと表現します。2つ以上のスレッド(マルチスレッドと言う)で並行して演算します。しかしながら、初期のコンピューターの CPU は1コア1スレッドでした。1コア/マルチスレッドになったのはコアの性能が向上したおかげです。
コンピューターの頭脳である CPU になぞらえて考えると、かつては、複数の記憶スレッドが同時に稼働していた頭脳が、年をとることで性能が低下し、今や、単一のスレッドしか稼働できなくなっている。同時に行われる2つの行為(ペンチを置くこととワイヤカッターを取りに行くこと)の一つ、後者が選択されて前者は放っておかれる。そのため、前者の行為そのもは実行されているのに、その経緯は記録されていない。こう考えると、ペンチをどこに置いたか、思い出そうとしても思い出せないことになります。

真偽のほどはともかく、工具を置き忘れて、アレコレ探すことになるのは事実です。作業よりも工具を探している時間の方が長くなっては本末転倒ですから、何かの策を講じなければなりません。ここは単純に、使った工具を元の場所に返すことにしました。そうすると、面白いことに、元の場所に返した記憶が無いのに、ちゃんと返っていたりします。ちょっとした驚きです。
年をとると何かと面白い体験ができます。だから、”年とり” はやめられないのです。もっとも、やめようにもやめられないものですが。

随分、日暮れが早くなり、すっかり、秋模様です。

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鴨居に頭をぶつける

2020 10 12 (art20-0280)
何にせよ初めて経験することは興味深いことです。それが老いに起因することであっても。年齢と共に心身がどう変わっていくのか、興味津々です。ここでの変化は、医者の世話になるような大きな変化ではなく、徐々に進行していく小さな変化です。日々の暮らしの中で、そうした変化に気づくことはないのですが、ある日を境に、様変わりします。かつては、できていたことが、この頃、できないなーとか、難しくなったなーと感じたり思ったりします。逆の変化もあるでしょう。以前には、難しかったことが、このごろ、容易になったなーと。

以下はそうした変化の一つです。

このところ、鴨居に頭をぶつけることが多くなりました。
今住んでいる家は両親が52年前に建てた家なので、内法寸法(敷居から鴨居の高さ)は5尺7寸(176cm)です。凡夫の身長は10代後半から変化していませんから、鴨居をくぐる時、頭をぶつけないように頭を下げることが習性になっている筈なのですが、このごろ、ゴツンときます。

頭をぶつけた時の状況を想起してみると、二通りありそうです。
(1) 鴨居があることが分かっている場合。
鴨居が前方にあることは分かっているので、くぐる時、頭を下げたつもりですが、ゴツンときます。ゴツンとくるのは、頭を下げる動作が遅いため、頭の下げ幅が足りないのではと考えています。鴨居をくぐることを意識しながら頭を下げるとゴツンときませんから、体の動きとしては問題ありません。しかし、普段は習性として頭を下げているだけで、それを意識的に行っていませんから、頭を下げる動作の速度は身体能力に依存します。年齢とともに動作の敏捷性は低下するでしょうから、鴨居をくぐる時、前へ進む動作と頭を下げる動作との間にズレ(ここでは、頭を下げる動作が間に合わないこと)が生ずることになります。特に、急いでいる場合は、そのズレが大きくなるので、ゴツンとくるのでしょう。

そうであるとすれば、ゴツン防止策は、急がず、ゆっくりと鴨居をくぐること、と言えます。

(2) 鴨居があることを失念している場合。
何か考え事をしているような時に、突然ゴツンときます。これは、あたるべくしてあたるのですから、どうしようもないことです。何かに気をとられないようにすることはできませんから。

そうではありますが、鴨居の存在を気づかせることができれば、状況は (1) へ移行します。そこで、家内は、たびたび頭をぶつける鴨居にのれん様の布きれをぶらさげました。それ以降、その鴨居に頭をぶつける回数が減ったように思います。

何はともあれ、抜本的な解決は内法寸法の大きな家に住むことです。最近の家屋の内法寸法は6尺 (182cm) だそうです。この高さだと、凡夫には、バリアフリーの頭上となります。しかし、そんな家に住むことはないでしょうから、今の鴨居とのお付き合いは続きます。どうぞ、お手柔らかに。

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打吹公園のサル

2020 10 08 (art20-0279)
台風14号の接近の影響でしょうか、今日は朝から本格的な雨が降っています。ここ数日は雨になると、気象協会 (JWA) は予報しています。

前回のブログ (art20-0278) で ”打吹山” に登ったことを書きました。市営陸上競技場-相撲場の横の登山口から入り、登頂、そして動物園のヤギ舎の横に下りてきました。動物園は打吹総合公園の施設の一つです。小さな動物園で、サル、ヤギ、ミニブタ、ウサギ、カメ、クジャク、インコがいます。動物園の定番スターのゾウ、ライオン、キリン等はいませんが、この辺りには他の動物園がありませんから貴重な動物園です。市街地に隣接していることもあり、いつ訪ねても人がいます。多くは、子供連れの家族です。

サルはニホンザルで、顔と尻が赤く、短い尾をもっています。20頭ほどが、円形の猿舎の中で、集団生活をしています。個別の展示と違い、群れ生活固有の行動も見ることができますから、見ていて飽きません。学生の一時期、サルの行動に興味を持ち、いろいろな本を読み、いくつかの猿山を訪ねました。今は、アレやコレやの解釈や説明を抜きに、ただ、サルを見ています。

今年は、1月26日、6月24日、そして先日の10月5日、の3回、ここ打吹公園のサルを見ました。寒かった日、暑かった日、涼しくなった日、それぞれのサルの様子を写真に収めました。
写真を眺めていると、吹き出しをつけて、"セリフ" を入れたくなります。

1月26日(寒かった日)
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6月24日(日差しが強く、暑かった日)
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10月5日(涼しくなり、快適な日)
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打吹山

2020 10 05 (art20-0278)
打吹山(204m)の麓に打吹公園があります。1904年に造園された公園で桜の名所となっています。公園内は複数の施設から構成される総合公園で、施設の一つに小さな動物園があります。小動物のサル、ヤギ、ミニブタ、ウサギ、カメ、クジャクなどが飼育されています。中でも、サルは、円形の猿舎の中で、十数頭が生活しています。山陰地方でサルに会えるのはここだけですから、時々、サルをみに公園へ出かけます。今年は1月と6月に出かけました。これまで、打吹公園へは幾度となく足を運んでいますが、公園の南にそびえる打吹山には登ったことがありません。今回、家内と登ってみました。

打吹山には、かつて、山城があったそうです。室町時代に伯耆国の守護山名氏が築いた城です。戦国時代末期になると、羽衣石城主南城氏が支配することになり、城は拡充されて近世城郭風に変わり、山頂の本丸を守護するために二の丸(備前丸と呼称:南条備前守元信が居住したことから)と三の丸(越中丸と呼称:後の時代に、中村氏の家臣山田越中守が居住していたことから)が造設されたそうです。関ケ原の戦いで、南条氏は西軍に組し敗北したことから、城は米子城主の中村氏の支配下におかれた。元和元年(1615年)の一国一城令で城は廃城となり取り壊される。(参照:ウィキペディア)

打吹山に登るコースは、2つあります。(1) 市営陸上競技場を左手にみて進み、相撲場横から登山道へ入り、山頂を目指すコース(1.0 km)、(2) 動物園のヤギ舎横から入り、大江神社を右手にみながら登っていくコース(1.3 km)。

今回、登りは (1) のコース、下りは (2) の逆コースをとりました。
市役所の駐車場に車を停め、相撲場横の登山口から入りました。ゆるやかな坂道で、特に、難所もなく、25分程で、山頂に着きました。ただ、雨こそ降らなかったのですが、あいにくの曇天で、山の中は湿度が高く、立ち止まると藪蚊が襲ってきます。小休止もそこそこに、ひたすら山頂を目指すことになりました。

山頂はちょっとした平地でした。平地を取り囲むところどころに石組みがみられます。かつての山城天守台の石垣なのでしょう。

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平地の北側の一画が少し盛り上がり、コンクリート製の石碑がたっています。そこから、北の方角に倉吉市街が一望できると期待したのですが、視界を塞ぐように木々が茂り、ほとんど市街を見下ろすことができませんでした。がっかりです。枝葉の間隙に目にするものは天神川を挟んだ向かい側の山腹に敷き詰められた無数のソーラーパネルです。
山頂でも、じっとしていると藪蚊が襲ってきます。早々に山頂を後にしました。

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下山は楽ちんでスイスイです。しかし、行けども行けども、二ノ丸跡地がありません。見過ごしたかと思い、途中で、引き返しましたが、見つかりません。引き返した地点に戻り、下山を再開しました。
どうにか見つけた備前丸(二ノ丸跡)広場は、草木が伸び放題で、とても、広場と言える状態ではありません。かなり朽ちかけた木造の看板が、草木の陰に立っていたので、ここが二ノ丸跡であることがわかりましたが、看板がなければ、見逃しかねない地所でした。
 
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しばらく歩くと長谷寺への分かれ道に出会いました。その分岐点にコンクリート製の回廊展望台が建っています。そこから、市街の様子を見て取ることができます。しかし、高度が足りなくて、手前側の市街地が麓の樹木に隠されて見えませんでした。やはり、ベストは高度のある打吹山の山頂から全景を眺めることでしょうか。ここから、打吹公園の動物園までは、数百メートルです。道に落ちていた小さな栗の実をいくつか拾いながら下山しました。
帰路、”夢マート”(農産物の直売所)に寄って、丹波栗を買いました。栗拾いに触発されたのか、家内は栗御飯をつくると言っています。楽しみです。

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畑の様子(10月上、2020年)

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早や、10月です。何をするでもありませんが、一日がすぐに終わってしまいます。そんな中、畑の作業は続いています。

ナス、ピーマン、パプリカの収穫
ナスは小型ですが、その分、実が引き締まっています。ほぼ毎日2本づつ収穫しています。ピーマンは数日間隔の収穫です。パプリカの実は大きく成長していますが、果皮の色はまだ青いままです。ピーマン、パプリカとも虫害がひどく、虫が食べ残したおこぼれを頂戴している感があります。

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ダイコンとカブの種撒き
夏野菜(キュウリ、トマト、ミニトマト)を片付けた畝に、堆肥をたっぷり加え耕起した後、貝殻石灰と発酵鶏糞を混ぜ合わせて、畝を立てました。そこにダイコンとカブの種子を撒きました。ダイコンの品種は “耐病総太りダイコン” 、カブは “スワン” です。いずれもアタリヤ社の種子で、ホームセンター “いない” で購入しました。種子を撒いた後、畝を覆うように黒色のネットを掛けました。9月13日に種を播き、3日後の16日には芽が地上に出ました。
【ダイコン】 点撒き(25cm間隔、3粒)。ダイコン種子の発芽率は100%でした。播種10日後、一本づつ抜いて2本としました。現在、かなり徒長していますが、本葉が出ています。
【カブ】 条撒き。カブ種子の発芽率も相当によかったようです。撒き過ぎで過密状態です。適時、間引いて隙間をつくります。虫食い跡が目立ちます。

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柿の調子が良くありません
毎年、渋柿(平種無)を栽培し、干し柿にして食べています。干し柿作りを楽しみにしていますが、今年の柿は変です。まだ熟期ではありませんが、多数の果実が赤黄色に変色し柔らかくなっています。そして落果します。樹上軟化症です。なかには鳥につつかれた果実も見受けられます。

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軟化症は、果実発育Ⅱ期からⅢ期の高温時に連続的な降雨があり、地下部が通気不足になると発生すると言っている人がいます。軟化症は、エチレンの生成が盛んになり、果実の成熟が進行したと解釈できますが、地下部の通気不足とエチレン生成との関係が理解できません。
しかし、タイミング的に当てはまる天候不順がありました。9月上旬、暑い日が続き、激しい雨がありました。これが、軟化症の発生に関係している可能性があります。とすれば、他所の柿も同様な症状を呈する筈です。家から畑へ出る通路沿いの民家の2軒の庭に柿の木が植わっています。どちらも西条柿です。例年、この時期は樹上に沢山の果実を見かけるのですが、今年はほとんどありません。木の下に、赤黄色に変色した果実が多数転がっています。2本とも同じ状態です。

果実の異変の他に、今年は、葉枯病が大発生しています。ほとんど全ての葉に病斑が見られます。また、黄褐色に着色している葉も多く、落葉が進んでいます。今年の夏は、下草が枯れて、地面がむき出しになりました。この状態が長く続きましたので、柿の木が弱ったのだと思います。

幸い、畑の柿は、全滅することなく、まだ、かなりの数の果実を付けています。しかし、葉が落ち、むき出しになった枝に付いている果実も少なくありません。これから熟期を迎えるのですが、そのような果実がどうなるのか、初めてのことなので、ちょっとした関心事です。できれば、今年も、自家製干し柿を食べたいなー、と思いながら、柿の木を眺めています。

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