学位と論文
2020 01 30 (art20-0207)
一枚の写真があります。祖母を真ん中にして父と母が両脇に立ち、学位記(博士)を持っています。3人ともうれしそうな表情です。学位記を持ち帰った時、父は学縁に入れて仏間の鴨居の上の小壁にかけました。数日後、近くの親戚を集めてお祝いをしてくれました。写真はその時のものです。
卒業研究で行っていた細胞分裂の実験が面白かったので、大学院に進学し研究を続行しました。数年後、研究成果を博士論文にまとめ学位を取得しました。この研究で4つの論文を学術誌に発表しました。論文は、沢山の人に読んでもらえるように英語で書くのが通例になっています。凡夫は英語の文章がスラスラ書けませんから、この作業は難儀でした。理由は英単語の使い分けを理解していないからです。中学と高専のころ、勝手気ままに過ごし、英語の勉強を怠った “付けが回ってきた“ といったところです。
今も、学術誌に投稿する論文を投稿規定に従って仕上げることは面倒な作業ですが、当時は、その前に一苦労がありました。まだ、PCどころかワープロも無い頃でしたから、英語文はすべてタイプライターの文字盤を叩いて、文字や記号を、パチパチと、紙面に印字していました。タイプミスがみつかると、初めからやり直すことになります。少し見てくれが悪くなりますが、間違い箇所だけを修正液で隠しその上から文字を打ち直することもありました。また、今日のような便利な画像のデジタル撮影・処理装置がありませんから、論文の図に用いるモノクロ写真を準備することも、大変手間が掛かる作業でした。フィルムの現像から印画紙のプリントまで、試薬の臭がたちこむ暗室に閉じこもって、手作業で行いました。
どうにか完成させた自信作の論文を、郵送便で、米国の学術誌の事務所に送りました。数ヶ月後に、学術誌の編集者から、凡夫が送った論文が返ってきました。添付の手紙には、これこれの箇所を修正して再提出するようにと書かれています。そして、追記として、“赤鉛筆の代金を請求します” とあります。「これ何?」と思いながら、返ってきた論文の原稿を見ると、一面真っ赤っかです。添削の跡でした。赤鉛筆でぎっしりと。「えっ!」と、短く、そして「あーー・・・」と、ちょっと長い唸り声を出していました。
ありがたいことに、当時の編集者は、論文の内容が発表に値する場合には、へたな英語を添削して返してくれました。(最近は、編集者が英語文を添削して返すことはなく、英語文が劣悪の場合は内容を問わず却下です) 凡夫は、英語論文の書き方を、編集者による添削から学習しました。通算の発表論文数が20を超えるあたりから、英語文の添削箇所がほとんど無くなりました。
大学院の生活費は、月3000円の授業料を含め、奨学金とバイトの稼ぎで賄いました。奨学金は定職に付いたら返済するつもりでした。しかし、大学院を出ても、結婚して家族ができても、定職に付かず研究機関を渡り歩いていました。家族を連れて米国に渡り、そこの研究機関にいた時に、父が全額を一括返済しました。帰国後、それを知って、驚くと同時に、ありがたいと思いました。学位記と一緒に写っている写真を眺めながら、つまるところ、父と母に思う存分勉強させてもらったのだなあと、改めて思い至ります。
留年(その 2)
2020 01 27 (art20-0206)
ヘルメット学生の多くは、特に何かを目指してやっているのではなく、群れて騒ぐのが楽しいからやっているようでした。衆目を集めるとか、ヘルメット姿がかっこいいとか、といった按配です。学生サークルに近い感覚です。関わっている闘争に話しを向けると、オウムのように、誰もが同じフレーズを繰り返し口にします。しかも、意味や解釈の確認から始めなければならないような具体性のない言葉をつなげて。ちょっとした質問にすら答えることができませんでしたから、多くは受け売りなのでしょう。
そんな中にあって、Aさんと、Bさんは違いました。発言や行動の背後に頑とした思想と不動の信念を感じました。その思想は多くの書物を読破・吟味して構築したもののようでした。少なくとも、マルクスやエンゲルスからレーニンやトロツキーをよく勉強していることが分かりました。そして、その思想が、実社会の見分や体験に基づいて構築したものではないことを重々認識している程の真摯さと謙虚さを合わせもっていました。それ故、2人は囲いの内(学生運動)から囲いの外(労働運動)に出ていくだろうと推察できました。しかしながら、2人の思想は凡夫には違和感がありましたから、行動を共にすることはひかえていました。Aさんは、時々、凡夫の下宿を訪ねてはいろいろな話をしてくれました。話の内容を理解できるように、当時、社会思想家の著書を読み漁りました。また、小説では高橋和巳やプロレタリアート文学に読書域をひろげました。
ヘルメット集団の学生とは言葉を交わしていましたが、かといって、仲間になることもなく、不即不離の状態にありました。一人で学生会館あたりをうろうろしていました。会館のガリ版(謄写版)印刷機を使って、自分なりの問題提起用のチラシ(アジビラとは言えない代物で、レポートに近いもの)を作ったりもしました。鉄筆でろう原紙を切り、木枠に原紙をはりつけ、インクを染みこませたローラーを掛けて、一枚一枚、紙に印刷します。ガリ版印刷の操作手順は、中学校の修学旅行のしおり(表紙用の奈良の大仏の描画を担当)を作製するときに習得していました。出来上がったチラシを、食堂前で学生に配り、学生大会の会場(体育館)で参加学生に手渡しました。ちらっと目を通して、ポイでした。チラシの内容は、当時関心のあった農民問題の一面でした。
以下余談です。この時の学生大会だったと思いますが、凡夫は、突然、全共闘系の人に腕をとられて、演壇に連れて行かれました。自治会候補の員数が足りない為、急場しのぎで、会場をうろうろしていた凡夫が引っ張り出されたようです。何か発言することになり、マイクの前に立ち、声を出そうとした時、「誰だあいつは」と叫びながら壇上に駆け上がってきた数人の民青系の学生に取り巻かれ、檀上から引きずり降ろされました。結局、一言も発することができませんでした。両系の学生は結構熱くなっていましたから、これを機に殴り合いになるのかと惧れましたが、幸い、小競り合い程度で収まり大事にはなりませんでした。
入学後、遊びふけていた学生の多くは、2年目の後期授業が終わると、さっさと本学キャンパスへ移り勉強に精をだします。学生会館で知り合ったヘルメット集団の学生の多くも、ヘルメットを会館に残して本学へ移っていきました。
凡夫は本学へ進む気力がなく、実家に帰りブラブラすることにしました。必須科目の単位を1つ落として留年しました。その科目は、講義を受けてレポートを提出するだけで単位がとれます。1年後にレポートを提出し必要単位数をそろえて、本学へ進みました。“ブラブラ遊びはここまで” として、本学では勉学に集中しました。
留年(その1)
2020 01 23 (art20-0205)
凡夫の入った大学は、入学後2年前期までは中央区の六本松キャンパス(教養部)で教養科目を履修します。そこで必要単位数を取得した学生は、2年後期から東区の馬出と箱崎馬出の本学キャンパスへ移り、専門科目を学びます。単位数が足りない学生は留年です。
凡夫が大学に入学した年 (昭和48年、1973)、入学式粉砕を叫ぶ全共闘系学生が式場に乱入しました(凡夫は、とある事情で式場にいませんでした(art19-0123)。授業開始予定日に六本松キャンパスへ出かけると、正門の立看板が目を引きました。授業料値上げ反対ストライキの決行中で、キャンパス全体に落ち着きがありませんでした。加えて、米軍のジェット機・ファントムが箱崎キャンパスの大型計算機センターに墜落した事故(昭和43、1968)があり、それに端を発して盛り上がった米軍板付基地撤去闘争が、数年後のその頃にも、学生運動の余波として残っていました。
田舎出の凡夫は、この雰囲気に魅惑され、「おお、これが大学というものか」と、妙に感動したことを覚えています。講義や授業の内容には興味を引くものはなかったのですが、キャンパスで見かける学生には興味深いものがありました。特に、そろいのヘルメットを頭にかぶり、一ヵ所に屯している学生には。米子高専ではお目にかかれない種類の学生です。何度も見ている内に素朴な疑問が湧いてきました。「何を目指しているのだろうか」と。単なる好奇心だったのですが、それを知りたくて、彼らの多くが巣窟としていた食堂横の学生会館に出入りするようになりました。その内、何人かと顔見知りになり、言葉を交わすようになりました。また、彼らと行動を共にするようになりました。デモにも誘われて借り物のヘルメットをかぶり隊列に加わりました。デモ隊は、スクラムを組んで、教養部キャンパスを出て大堀公園の淵にある福岡米国領事館までの1.5kmを行進します。反米、反帝のスローガン(米軍ファントム墜落事故から続いているのでしょう)を唱えながら。しかし、何度目かのデモを最後に止めました。最後のデモで、凡夫はスクラム隊列の左端を務めました。ピッタリ横に付いた起動隊が、ジュラルミンの盾を容赦なく、左肩から腰のあたりにがんがんぶつけてきます。これには恐怖を感じました。付き合い程度のデモ参加とこの恐怖感は釣り合いがとれません。
(もう少し書きたいことがあります。続きは次回にまわします)
こりゃ適わん
2020 01 20 (art20-0204)
世の中には "おそろしく出来る人" がいます。小学、中学、高校、大学(院)、実社会へと世界が広がっていくと、そうした人に出会うことになります。その出会いは、時には、自尊心の喪失につながります。決して愉快なことではありません。
「こりゃ適わん」と感じた最初の出会いは、中学校に上がる前です。
小さい時から野外で遊んでいましたから、運動能力はそれなりにありました。小学校の高学年のころ、短距離走はいまいちでしたが、800m走は得意種目で、郡の競技大会に学校代表で出場したりしていました。小学校では誰よりも速く敵なしでした。中学に上がる前だったと記憶していますが、町内の3つの小学校の対抗競技会が開催されました。3つの小学校は羽合、長瀬、宇野小学校で、それぞれ浅津、長瀬、宇野地区にありました。そこの卒業生は羽合中学校に入学します。その競技会の種目800m走に、凡夫は羽合小学校の代表として出場しました。トップでゴールするだろうと考えていましたが、結果は、長瀬小学校のN君がダントツのトップでゴールしました。凡夫は、大差をつけられての2位でした。前を走るN君に付いていこうと頑張ったのですが、とても付いていけるようなスピードではありません。途中で、あきらめました。凡夫がどんなに練習を積んでもN君に勝てるような気がしませんでした。N君に完敗、「こりゃ適わん」の一言です。この体験が尾を引いたのか、中学に入ると運動クラブを敬遠し技術クラブに入りました。
次の出会いは、高専入学後です。
前回のブログで、中学の時、数学がよく出来たことを書きました。他の科目が出来ない分、数学が得意であることが一つのプライドだったのだと思います。数学の能力に秀でていると自負していました。ところが、このプライドは、高専に入学後、学年が上がるにつれて崩れていきました。
高専の数学は、高校の数学と大学の教養課程の数学を混合したようなものです。1年目は基礎数学、2年目は微分積分に線形代数が加わります。3年目は空間ベクトル・行列と確率統計学、そして、4,5年目には応用数学を学びます。盛り沢山の項目を短期間で学ぶため、授業の進行は早く、急速に難しくなります。学年が進むにつれて、凡夫はアップアップ状態になりました。しかし、A君は何の苦も無く理解を進めています。これには、驚きました。こちらが、四苦八苦してどうにか解いている問題をいとも簡単に解きます。「こりゃ適わん」と思いました。懸命に勉強してもA君と肩をならべることはできないと感じました。凡夫が自負していた数学的能力は、たかが高専レベルの数学にすら通用しないことが分かりました。A君を知って、プライドを崩した学生は凡夫だけでなく、他にもいたと思います。高専に来ている学生の多くは、凡夫のように中学の数学がよく出来たでしょうから。
余談ですが、高専を4年の夏に退学した凡夫にとって、大学に入り、教養課程の数学は何の苦もなく理解できました。授業内容の多くが、高専で学習したことでしたから。むろん、単位評価は "優" でした。
世の中には出来る人が沢山います。精一杯奮闘努力すれば、その人達と肩を並べることができます。しかし、精一杯奮闘努力しても、肩を並べることができない “おそろしく出来る人” がいます。早い時期に、そうした人がいることを知ったことは、凡夫のその後の人生によい意味で影響を与えているものと思います。
高専受験
2020 01 16 (art20-0203)
高専(高等専門学校)は、高度経済成長期に、工業分野での基礎学力の充実した実践的中堅技術者を養成するために設立されました。一般科目と専門科目をくさび状に配置し、1年目から徐々に専門教育が増えていく教育課程を採用しています。昭和37年 (1962) 年に、国立高専一期校として12校が開校しました。その後、短期間に全国に設置されます。米子高専は、昭和39年 (1964) に国立高専三期校として、機械工学科、電気工学科、工業化学科の3科で開校しました。昭和43年 (1969) には、建築学科が、昭和62年 (1987) には電子制御工学科が新設されています。また、平成6年 (1994) には、工業化学科が物質工学科に、平成16年 (2004) には電気工学科が電気情報工学科に改組されました。
凡夫は、米子高専(電気工学科)を中途退学し、大学入試を受けて大学へ入りました。大学から見ると、ちょっと遠回りしたことになります。以下に、普通高校へ行かず、高専へ行った経緯を記します。
中3の進路指導の面談で、先生から、「お宅の子は、普通高校には受からないが、高専には受かるかもしれない」と告知されました。普通高校と高専の試験日が重なり、どちらかを選ばなければなりませんでした。両親としては、できれば、姉と同じように、普通高校へ行かせたかったようですが、受からないと太鼓判を押されては、それを推し進めることができなかったようです。凡夫は、当時、将来のことは何も考えていませんでしたので、どちらでも良いと思っていたようです。結局、高専を受験することになりました。
進路指導の教師が、普通高校には受からないと判断したのは、納得できます。なにせ、成績は、数学と理科だけはよいのですが、その他は並ですから。一方、授業・生活態度に関しては、教師に目を掛けられていました。しかも、特別に。こんな具合です。授業中、隣の生徒と雑談していると、突然、教壇から降りて来た教師にゲンコツを食らいます。なぜか、隣の生徒にはゲンコツがありません。時には、何もしていないのに、突然、ゲンコツを食らいます。何もしていない、そうです、教師の話も聞いていません。またある日は、授業中、一人で、校庭に出て、ブラブラしていました。これまた、ゲンコツ付きの厳重注意です。しかし、何度もブラブラしていると、いつの間にかゲンコツがなくなり、そして、厳重がなくなり、単なる注意だけになりました。総じて、自分勝手に中学生活を過ごしていました。その分、内申書はひどかったと思います。少なくとも、1,2年生のそれは、間違いなくどうしようもないものだったと思います。担任の教師が、生徒生活記録帳をパラパラと捲りながら、赤ペンでの記述の多くに凡夫がかかわっていることを示しながら、凡夫に反省を促したことを覚えています。
こんな凡夫でも高専に合格しました。真偽の程は定かではないのですが、高専の入試は、内申書より当日の試験の得点が、特に、理数系(数学、理科)の得点が、重要視されると、言われていました。このことがあったので、進路指導の教師は、高専には受かるかもしれないと、言ったのだと思います。凡夫は、家での予習復習は我関せずでしたが、数学と理科だけはできました。特に、数学は。問題の解法を説明するために、教師の代わりに教壇に立つことも多々ありました。数学のT教師は、良い意味で凡夫に目を掛けてくれました。
高専に合格したことは、進路指導の教師を満足させたことでしょう。が、しかしです。その年(昭和44年、1969)の普通高校(東高)の入試は受験者全員合格でした。もし、凡夫が受験していたら、たった一人の不合格者になったのでしょうか。どうなったのか、気になるところです。
羽合中学校から4名が米子高専を受験しました。地元(羽合町)から試験会場の米子市彦名町にある高専への行き帰りには、T君のお父さんが付き添ってくれました。お陰で、皆、無事に試験を終えることができました。数日後合格発表があり、T君だけが不合格でした。こんなことがあるのかと、随分驚きました。同時に、凡夫ごときが合格して、T君にではなく、T君のお父さんに、すまない気持ちになったことを覚えています。
三里塚
2020 01 13 (art20-0202)
ちょとした思い付きで、ぶらっと出掛けた話の4つ目です。
この話は未整理ですので、ここでは、概要を記します。
三里塚闘争は、1971年の2月に第一次、そして9月に第二次行政代執行が実施され、作業員・機動隊と空港反対同盟・支援党派が激しく衝突しました。その様子は、マスメディアで盛んに取り上げられました。それが一段落すると、三里塚闘争はマスメディアで大きく報道されることがなくなり、ちょっとした攻守の謬着状態が続きました。
1973年、大学2年生のとき、三里塚闘争ってどうなっているのか気になり、ちょっと見てくることにしました。単なる好奇心です。リュックに替え着を詰め込んで、千葉県成田市へ向かいました。
三里塚地区をブラブラしていると学生風の男に呼び止められて、集会所風の建物へ連行されました。そこで、来訪の目的をリーダー風の男に伝え、アレコレ話していると、なんのはずみか、援農を行うことになりました。特に、異存はありませんでしたので、紹介されたO農家へ行きました。O農家には2人の先客がいましたから、凡夫もすんなりと受け入れられました。2人の先客は某セクトから派遣された学生運動家の卵?でした。
O農家は、広大な畑地を所有し、多種類の野菜を栽培していました。O宅に寝泊りして、ラッキョウの収穫作業を手伝いました。その間、セクト派遣の学生運動家の卵?は何度か交代していました。セクトを異にする学生運動家の卵?が同居している構図はなかなかおもしろいものでした。ラッキョウの収穫が終わり、凡夫は引き上げることにしました。3週間程の滞在でした。滞在中、楽しみは三度の食事でした。品数、量ともに豊富で食べ放題でした。加えて、夕食にはビールが付き、皆で食卓を囲み賑やかな食事でした。
立ち去る時に、凡夫がセクト派遣の援農ではないことが分かったのか、帰りの交通費をいただきました。
自転車帰省
2020 01 09 (art20-0201)
ちょとした思い付きで、ぶらっと出掛けた話の3つ目です。
道路地図を眺めていると、大学のある福岡市から実家のある羽合町(現在は合併して湯梨浜町)までの距離は、海岸沿いの道をたどると、500 km 程度です(3号線、福岡-門司間:90 km 191号線、下関-益田間: 150 km 9号線、益田-羽合町間: 250 km)。
夏休みを間近に控えたある日、歩いて帰省しようと、ふと思い立ちました。1日あたり 20 km 歩けば25日の旅です。小型のリュックに替え着とタオル、そして蚊帳代わりのネットを詰め込んで下宿を出発しました。しかし、3日目にしてギブアップです。幹線道の片隅を歩いていると、車が横をびゅんびゅんと疾走します。暑い中、歩いていることが段々バカバカしく思えてきましたので、駅に出て、列車を乗り継いで実家に帰りました。1年生の夏のことです。
翌年、春休みが始まる一週間程前に、今度は、自転車で帰省しようと思い立ちました。時速 20 km で走らせると、25 時間の走行です。2日もあれば、実家に到着すると計算し、早朝に下宿を出ることにしました。
しかし、自転車をもっていませんでしたので、まず、自転車を調達しなければなりません。幸いなことに、近くの自転車屋を覗くと、ロードバイクの中古車が売り出されていました。それを購入し、また、パンク修理道具一式と携帯空気入れも手に入れました。
小型のリュックに、自転車道具と着替えを詰め込んで、計画通り、朝早く出発しました。次の日には、目的地に着くと考えていましたので、とても軽装でした。
3号線を東に走行し、北九州市を素通りして門司市に入りました。関門トンネルをくぐって、関門海峡の対岸の下関市に出ました。下関市から、海岸沿いの191号線に沿って長門市、萩市を通過して益田市に到達するつもりでした。ここまで 240 kmです。12 時間程の走行の予定でしたが、誤算がありました。道は平たんとは限らないと言うことです。結構坂道が多く、走行距離が伸びない割に疲れが溜まりました。結局、その日の内に、益田市に着くことができず、かなり手前の駅の舎内のベンチに横になりました。ここで、もう一つの誤算がありました。3月にしては寒い日で、ベンチに横になっても、殆ど眠れませんでした。寝袋を携帯していればと、寒さに震えながら、何度も悔やんだことをよく覚えています。
翌朝、お尻の痛みを我慢して自転車にまたがり、遮二無二にペダルを踏みました。しかし、昨日の疲れが残り、思ったほどには距離が伸びません。9号線に沿って益田市と太田市をなんとか通過したのですが、出雲市の手前で、力尽き、もう一晩、駅舎のベンチのお世話になりました。その日は、昨夜より、寒さが緩く、少しは眠れました。
3日目、出雲市、松江市を抜けて、米子市に入りました。米子から実家のある羽合町への道は、高専の時にオートバイで何度も通った9号線ですから、よく知った道の強みで気分も軽くスイスイ進みました。そして、暗くなる前に、実家に到着できました。ただただ、疲れました。
福岡への帰路、2週間ほどかけて、海岸沿いに四国を一周しました。気の向くまま各地の名所に寄りながらブラブラ自転車走行です。もちろん、実家へ行くときの駅舎のベンチ泊まりの寒さにはこりましたから、装備には気をつかいました。特に、寝袋は丈夫なものを携帯しました。寝所の多くは駅舎のベンチでしたが、他に、商業ビルの屋外階段の下床、材木置き場の軒先、海岸のボロ小屋など、所かまわず横になりました。いずれも無料の寝所ですから、宿代零円の自転車旅行でした。
釜ヶ崎
2020 01 06 (art20-0200)
ちょとした思い付きで、ぶらっと出かけた話の2つ目です。
誰に言うことなく、10日間程大坂西成区のドヤ街、通称 “釜ヶ崎”、で過ごしました。何か特別な目的があった訳ではなく、何かの本でドヤ街のことを知り、どんなところか見てみようといった軽い好奇心からです。その日暮らしの労働者の溜まり場だからといって、その人達の労務を体験する意図はなく、それ相応の金銭を所持していました。米子高専2年生の時です。
米子駅から20:46発の京都行普通列車に乗りました。この列車は、当時(昭和40年代)、下関駅と京都駅を結び、山陰本線の全線(下関市の幡生駅―京都駅)を走行していました。京都駅への到着は早朝の 5:24です。京都へぶらっと出かけるときによく利用しました。しかも、運賃が安く、加えて、夜行列車でもあり、走行中は寝ていればよいのですから。ただ、狭い座席に横になるのは窮屈なので、夜も更けて、乗客が少なくなる頃合いを見て、座席を外して(持ち上げると簡単に取れました)床に並べ、その上に横になります。即席の座席ベッドです。京都に近づき、乗客が乗りこんで来る前に、座席ベッドを元の位置に戻すことにしていました。しかし、時には、行商風の女性に肩をたたかれて起こされたことも、目覚めると乗客に囲まれていることもありました。迷惑をかけていたと思いますが、苦言や注意を受けた記憶はありません。もっとも、何人かは、通路の床に新聞紙を敷いて、あるいは、寝袋に入って転がり、凡夫同様に横になって寝ていましたから、凡夫はその中の一人にすぎませんでした。当日の京都行夜行列車の中でどのような恰好で寝ていたのか覚えていませんが、恐らく、いつも通りと思われます。京都駅到着後、大阪へ向かい環状線に乗り換えました。そして、新今宮駅で降りました。
初めての地では、大まかな地図を頭に入れて、あちこち歩くことにしています。そうすることで、身体がその地に馴染むのか、緊張感がとれます。(実はこれは、何かの本で読んだ、旅好きの人が推奨する行動を真似たものです)
新今宮駅から南へ足を運び、ブラブラ歩きました。どこをどう歩いたかは覚えていません。路上で見かけた人は、どこにでもいそうな人であり、とてもその日暮らしの人とは見えませんでした。ただ、多くの人が、うつむき加減に歩いていました。一方、公園内やその周辺では浮浪者風の人も見かけました。
夕方、寝る場所を探して、いくつかのドヤ(簡易宿泊所)をあたりました。最初の宿は、個室ではなく、数人が同室に泊まる(雑魚寝に近い)相部屋型でした。料金は 100 円以下だったのですが、他をあたることにしました。次の宿は、軽量鉄骨3階建てです。外観は大きく見えましたが、入ってみると、天井がやけに低いと感じました。部屋は個室で、2畳に少しの板畳があり、その上に小さな窓が付いていました。家賃は一泊300円。3番目の宿も、軽量鉄骨3階建てだったのですが、廊下と部屋の汚れがひどく、結局2番目の宿に決めました。隣室との仕切り壁の造りが軟弱で、ちょっと気にはなりましたが。備え付きの布団はせんべい状で、しかも、幅が狭く、横たわると両腕が外に出てしまいました。毛布は薄く粗末なものでした。
翌日は、昼前に起きて、一日中、ブラブラしたのですが、前日と変わったことはありませんでした。夕方になると、路上に人が多くなり、昼間と違って、人の声が耳に入るようになりました。次の朝は、早く起きて、西成職安に出かけました。そこには、人、人です。どこから湧いてきたのかと思うほどの数です。その人達は手際よく分けられて、待機していたトラックやバスに乗り込みます。建設現場へ直交するのでしょう。現場がどのようなものか、どのような作業に従事するのか、分かりませんが、一日働いて日銭を稼ぐ。まさに日雇いです。翌朝も、同じ光景をみました、そして、その翌朝も。日雇い労働者の街でした。
2番目の宿で寝泊りしていましたが、特にトラブルはありませんでした。ただ、食事には困りました。日雇い労働者が屯しているめし屋に入ることが出来ませんでした。そこは飲み処でもあり、夕方になると賑わっていました。夕食はもっぱらパンと果物とし、昼食は少し歩いて天王寺駅周辺の食堂で済ませました。
日がな一日街をブラブラしていましたが、段々興味が薄れてきましたので、頃合いをみて帰ることにしました。何か興味ある事件でもあれば滞在を延ばしたのでしょうが、特にそのような事件はありませんでした。おしなべて、ピリッとしたところのない、どんよりした街です。
京都駅 22:06 発の山陰線下りの普通列車に乗りました。
米子の下宿先に帰る前に実家に寄りました。玄関のドアを開けると、両親が出て来て、ほっとした顔をしています。はて?と思いましたが、聞いてみると、大変なことになっていることがわかり、愕然としました。誰にも言わず、ぶらっと出かけましたから、学校では無断欠席状態で、実家に問い合わせの連絡が入ったそうです。両親を含め、誰も凡夫の居所が分からず、心配していたとのことでした。
この件で、無断欠席したことの始末書を提出することになり、保護者として父が同行してくれました。父は、このとき、初めて、高専の門をくぐりました。2年後、もう一度、父は高専の門をぐぐることになります。凡夫が退学届を提出するときでした (art19-0116)。父は、この時も保護者として同行してくれました。一回目も、二回目も、父は、意見めいたことは一言も口にしませんでした。
津軽
2020 01 02 (art20-0199)
あけましておめでとうございます。
旧年は、大変な目に遭いましたので、新年は、平穏に過ごせることを祈るばかりです。今年の正月も、遠くから子供達が来てくれて、元気な顔を見せてくれました。
さて、ちょっとした思い付きに誘われて、見知らぬ地へ足を向けることが誰にでもあると思います。凡夫も何度か経験しています。その一つは “津軽” 行きでした。
米子高専の一年生の夏、太宰治の紀行文(?) “津軽” を読んで、以下の表現に出会いました。竜飛に到着した時のものです。
もう少しだ。私たちは、腰を曲げて烈風に抗し、小走りに走るようにして竜飛に向かって突進した。路がいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突っ込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなくなった。
「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。
「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎とかんじたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して小さな家々が、ひしとひとかたまりにあって互いに庇護しあって立っているのである。ここは、本州の極致である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。
突然、"鶏小舎に頭を突っ込んだ" と感じる、情景はどんなものだろうか、と思い、ちょっと見てみようと、米子駅から上りの夜行列車に乗りました。昭和44年 (1969) の夏です。
夜の青森駅の構内や周辺には、大き目の角ばったリュックサックを背負って、ぶらぶら旅行をつづける若者(カニ族と呼ばれていました)が、多数、思い思いの恰好で寝ていました。青函連絡船を乗り継いで北海道を目指しているのでしょう。凡夫も、適当なスペースをみつけ、段ボールを下に敷き、上に新聞紙をかけて横になりました。、翌朝、津軽半島の東海岸を北上し、竜飛へ向かいました。
海岸沿いに整備された道が通っていて、その道なりに歩いて竜飛に入ってしまったため、”津軽” に表現されている鶏小舎に頭を突っ込んだような印象を受けることはありませんでした。太宰治が紀行文 (?) ”津軽” を書くために竜飛を訪ねたのは昭和19年 (1944) 5月です。当時は、凡夫が辿った海岸沿いの道はなく、海岸から少し内側を通る狭い道が部落の中を貫通していたのでしょう。小さな家々 (浜辺で見かける漁師の道具小屋のような背の低い小型の家に似ている) の並びの中ほどに道跡らしい広がりが確認できました。その道を歩いて竜飛の部落に近づけば、小さな家々が軒を寄せ合って集合しているところへ入っていくことになります。そのような小型の家々を、鶏小舎と表現し、小型の家々に取り囲まれた状態を鶏小舎に頭を突っ込んだと表現したのでしょう。言い得て妙です。文筆家です。
凡夫は、最初、これとは異なる情景を思い描いていました。暴風雨対策もあり、家は小さく、軒先は低く、狭い道の両側から重なるように飛び出た軒先の下を歩く我が姿に、腰を折って背を縮めるような姿勢、あたかも、鶏小舎で作業する時の姿勢、を連想したのだろうと、推察していました。
”津軽” は、作家の書いた紀行文風の小説でした。
帰路、三厩(だったと思いますが)の海岸に面した宿に泊まりました。朝、宿泊者が一階の板の間に集まって食事をしました。中に、何週間も滞在している人が数人いました。調べものやら書き物をしているようでした。 こんなのもいいかな、と思ったことを記憶しています。
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